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フロントガラス越しの空は、いつの間にか厚い雲に覆われていた。
まだ昼過ぎなのに、国道沿いの木々も山も、墨を流し込まれたような辛気臭さだ。
ハンドルを握ったまま梅川孝明は、大きく息を吐きだした。
視界の端で稲妻が光った。まるで自分をあざ笑っているようだった。くすぶっていた怒りが再び熱を帯びる。
ひと月前に家を出て行った嫁が、離婚届を送り付けてきたのは今朝のことだった。
DVの証拠もあるので、応じなければ法廷で争う、という書面まで添えて。
苛立ち紛れに家でひと暴れし、そのあと行ったパチンコで、今月の生活費をほとんど磨った。
この不運は俺のせいか。いや違う。俺を呪うやつらのせいだ。俺は被害者だ。
ぱらぱらと小雨が降ってきたのを合図に、一気に速度を上げる。
狭い一車線の山道は、すれ違う車もほとんどなかったが、カーブの向こうから対向車があれば、よけきれるかは分からない。
「歯向かって来る奴はぜんぶ弾き飛ばしてやる。運が悪かったと思え」
目を見開いて吠える。
湧き出る苛立ちを止めるすべを、孝明は持たなかった。
緩いカーブの先に見えてきたのは、放置された軽トラだった。山の斜面に乗り上げて朽ちかけている。まるで骸骨のようだ。道路にせり出してはいないため、すぐに撤去されず放置されているのだろうか。
「くそが」
見るものすべてに腹が立ち、さらにアクセルを踏み込む。
次の瞬間、目の前にふわりと白いものが舞った。
大きな布きれに見えたそれは、激しい振動のあとボンネットに乗り上げ、フロントガラスを直撃した。重量がなかったせいか、ガラスは割れず、そのまま流れるように滑り、左手のガードレールを超えて、針葉樹の谷に落ちて行った。
完全に思考が止まり、孝明がブレーキを踏んだのは、その地点から100メートル近く過ぎたあたりだった。
心臓がバクバクし、体が小刻みに震える。
何もなかったことにするには、無理がありすぎた。フロントガラス越しに見た映像はあまりにも鮮明だ。ボンネットを丸太のように滑って来る後頭部がしっかり記憶に焼き付いている。
白っぽい服から出た細い首、高い位置で二つに結んだ髪の毛。スカートはひだの入った黒。
子供だ。
中学生くらいの。
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