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「おたき、何故こんなことを……」
前触れもなく家に火を放ったおたきを前に、弥次郎が動揺しながら尋ねる。
「引っ越すのですから、この家はもう要らないでしょう?」
とんでもない。弥次郎にとっては爺さんと婆さん、そしておたきとの思い出の詰まった家だ。無くすのはあまりにも惜しい。
おたきはくるりと弥次郎の方に振り向くと、両手を広げて仰々しく話し始めた。
「弥次郎様。あなたは今日、全てを失います」
口にしている内容とは裏腹に、嬉しそうに話すおたきの姿は弥次郎には不気味にさえ写った。
そして、次におたきが口にした言葉は、弥次郎には到底受け入れられないものだった。
「弥次郎様。私こそがあなたの探していた化け狸です」
「……は?」
どろんっと煙が上がる。煙は濃く、小さい。燃え続けている家から上がったものではない。
すぐに煙は晴れ、中からは──狸が姿を現した。
弥次郎は目の前で起きていることが信じられないでいる。
「!」
狸がくるりと背を向け、弥次郎は驚愕した。
狸の背中に僅かに見える火傷の痕。兎が仇討ちの際に、狸の背中に火をつけてできたと聞き及んでいるものと同じであった。
目の前の狸が憎き狸であると信じざるを得なくり立ち尽くす弥次郎の前で、狸は再び煙を上げておたきの姿へと戻った。
ただし、おたきの頭には狸の耳がそのまま残されており、先程起こった出来事を忘れさせてくれないでいる。
「おたき……! お前が……?」
おたきはふっと笑うと、少し苦しそうな笑顔とともに語った。
「兎めの手によって溺れ死にかけた私はあの日、弥次郎さまによって助けられました。
弥次郎様は初めて顔を合わせた日、私に一目惚れしたと話していましたね?
私も同じです。
狸の身でありながら、あなたに助けられた日、私はあなたに恋をしてしまったのです。
私はその後、お爺さんに拾われ、人間のことについて沢山学ばせてもらいました。
そこでやっと、過去の無知な自分が、弥次郎様の爺様と婆様にどれほど酷いことをしたか分かったのです。
そして、弥次郎様が二人の孫であることも知りました。
私は恩返しと贖罪をしなくてはなりません。同時にあなたとの恋を成就させたいという下心もありました。
そのために爺さんに頼んで、弥次郎様と番にならせてもらいました。
私の罪は到底贖え切れるものではありません。爺様は安らかに亡くなられましたが、未だ申し訳ない気持ちでいっぱいです。
それどころか、私は愛する弥次郎様とともに、あのように幸せな生活を送らせていただき、さらに恩義を重ねてしまいました。もはやどう頑張っても恩返ししきれません。
ですが弥次郎様、そんな私にも悩みがあったのです。
私は、晴れて弥次郎様の『最愛』になることができました。
でも、弥次郎様が最も想っていたのは私ではありません。
あなたの中で最も強かった感情は『愛』ではなく、『憎しみ』。
あなたの心の最も多くを占めていたのは『おたき』ではなく、『狸』の私でした。
ですが、どこまで行っても『おたき』は仮初の姿。
私は『狸』なのです。どんなに『おたき』が愛されようとも、愛されたのは本当の私自身ではない。空虚感が積み上がるばかりでした。
弥次郎様に最も愛されている『おたき』の私。
弥次郎様に最も想われている『狸』の私。
二つの私がお互いを嫉妬していました。
どうしても『私』はあなたの『いちばん』になれないのです。
ですが、苦悩の果てに、私はこの答えに辿り着いたのです」
『私』が帯からするりと出刃包丁を抜き、弥次郎の手に握らせる。
そしてそのまま手を添え、包丁を『私』自身の首へと押し当てさせた。
「あなたは私を最も憎んでいます。今すぐにでも殺したいでしょう。
でも同時に私はあなたの最愛であり、もはやただ一人の家族です。絶対に失いたくないはずです。
だからこそ、弥次郎様。あなたには今日、『私』という全てを失っていただきます。
私はあなたの生き甲斐そのものです。
弥次郎様の『愛』も『憎しみ』も、全て『おたき』と『狸』──『私』が持っています。
『おたき』である私を殺せば、あなたは最愛を失い、爺様を失った時以上の最大の『悲しみ』に暮れるでしょう。
『狸』である私を殺せば、あなたは仇敵を討ち取った最上の『喜び』を得るでしょう。
あなたの生き甲斐、その全てを今ここで『私』が奪いましょう。
そして、あなたの全ての感情、心の『いちばん』を『私』が最後にいただきます」
弥次郎の手がかたかたと震え出す。包丁を握る手を『私』は優しく両手で包み込んだ。
『私』の首に包丁の刃が僅かに食い込み、血が流れる。
よく研がれた包丁だ。
狩人である弥次郎がこのまま包丁を振るえば、『私』の首など簡単に落ちるだろう。
期待と喜びを隠しきれないと言うように、『私』の耳がぱたぱたと動いた。
『私』が包丁に添えた手に力を込める。
あと一息だ。
『私』は最高の笑顔を弥次郎に向け、いつもの言葉を最後に伝えた。
「弥次郎様。私はなんという幸せ者でしょうか」
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