0人が本棚に入れています
本棚に追加
「弥次郎様は狸ばかり狩るのですね」
ちょうど弥次郎の狩ってきた狸の毛皮を剥ぎながら、おたきが弥次郎に話しかける。
「しかも、わざわざ肉まで食べますよね。肉を食べれない爺様はともかく、私にはそれと別に鳥の肉を用意してまで。
狸の肉など獣臭くて食べられたものではないと聞きますが……。
妻としては折角料理するのですから、旦那には美味しいものを食べて頂きたいです」
弥次郎がおたきをちらりと見て、答える。
「おたきの頼みであっても、これは止められない。すまないな」
少しの沈黙。
おたきは正直少し驚いていた。弥次郎はおたきの頼みを断ったことがない。今回が初めてだ。しかも即答。拘りの少ない人だと思っていたので、断られるとは思っていなかった。
しばし考えてから、おたきが再び口を開く。
「納得するためにも、理由を聞かせていただけますか」
弥次郎は少し渋る様子ではあったが、毛皮を剥ぎ終えた小刀を床に置き、ひと呼吸してから話し始めた。
「俺の婆さんが狸に殺されたって話はしたよな?
しかも、ただ殺されただけじゃない。狸は婆さんの肉を鍋にして、それを爺さんに騙して食わせやがった。爺さんはそれ以来、鍋の肉が食えなくなっちまった。
んで、爺さんは兎に頼んでその狸を殺してもらったんだ。狸は泥舟に乗せられて、池の真ん中で溺れ死んだ。
そのはずだったんだ。
俺はここの家に引っ越してくる途中、池で溺れる狸を見つけた。
何も知らなかった俺は、溺れる狸を助け、持っていた食料を与えた。
爺さんから事情を聞いて、すぐに戻ったけど、狸はもういなかった。手遅れだったよ。
仇討ちの最後を俺が邪魔しちまった。婆さんを殺し、爺さんに食わせた憎き狸を俺が助けちまった。
それから、見かけた狸は全部殺すようにしてるんだ。いつか、あいつを見つけた時に俺の手で仕留めれるようにな。
そして、その肉も食うようにしてる。『臥薪嘗胆』だ。あの不味さが俺の憎しみを忘れさせずにいてくれる」
ゆっくりと話終えると、弥次郎は小さくなっていた囲炉裏の火に炭を足した。囲炉裏の火が勢いを戻す。
燻ってはまた新たに燃え上がる。その火の様子は弥次郎の抱く憎しみのようであった。
話を聞いたおたきは黙り続けている。
そんなおたきを見て、弥次郎はふっと一息吐くと立ち上がった。
「夕飯の前にこんな話をして悪かったな。
今日はもう疲れてしまったから寝させてもらう。俺の分の夕飯は用意しなくて大丈夫だ」
弥次郎はそう言うと襖を閉め、奥の部屋に寝に行った。
外から、がちゃがちゃと農具を片付ける音がする。爺さんが畑仕事を終えたようだ。
囲炉裏の前には、ぽつんとおたきがひとり、取り残された。
おたきが顔を下に向けると、囲炉裏の火が目元に僅かに溜まった涙を照らし出した。
「私の願いよりも、『臥薪嘗胆』ですか……」
その呟きは小さく、戸を開けた爺さんの「ただいま」の声にかき消され、誰にも届かない。
日は既に落ちて戸の外は暗く、何も見えなかった。
最初のコメントを投稿しよう!