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4月の天気は変わりやすい。先程までは青空が広がっていたのに、いつの間にか雨が降っている。こんなことがざらにある。今日もそうだ。太陽が雲に隠れ、放課後の教室が暗くなる。
窓側の前から2番目の席。そこで私は、今日返された英語の答案用紙を眺めていた。
「42点、か」
赤点ではなく良かったと喜ぶべきなのだろうか。もっと上を狙えたはずだと悔しがるべきか。複雑だ。
「頑張ったんだけどな」
私の人生、いつもこんなんだ。どれだけ頑張っても本気でぶつかっても、失敗して終わるんだ。逆上がりも二重跳びも、結局最後までできなかった。だから決めたんだ。何事もゆるく頑張るって。そこそこ一生懸命。そこそこ真剣。このくらいが丁度いい。
「さて、行くか」
席を立ち上がり、リュックとラケットケースを取りにロッカーへと向かう。
ロッカーにあるゴミ箱の横を通ろうとして、クラスメイトと姿が目に留まった。
「あれ? 光里ちゃん。ゴミ箱にストラップ落ちたよ?」
私はゴミ箱を指さした。
「え? そのストラップのこと? もういらないからいいの」
光里ちゃんは覚めた顔で言う。
「まだ綺麗そうだけど」
「うん。汚くはないよ。でも格好悪いから」
「そうなんだ」
私は苦笑いする。
「じゃーね」
「うん。ばいばい」
去って行く光里ちゃんの後ろ姿を見つめる。完全にいなくなったことを確認した私は、ゴミ箱からストラップを拾い上げた。
「こんなの、あんまりだよ」
手作りだろうか。少し不格好な茶色の子犬。
「可愛いじゃん」
私はそれを、部活のラケットケースにそっとしまった。
カコンカコン。ピンポン玉の音が心地良い。
私達が通っている高校の小体育館。卓球部はいつも、ここの4分の1のスペースを使って活動している。
「あー、だりぃ。休憩しよーぜ」
そう言い面倒臭そうにラケットを手放したのは、卓球部唯一の男子部員・金森俊也(かなもりしゅんや)。
「ちょっと、まだ始まって15分しか経ってないじゃない。そうすぐへばらないでよ」
練習相手のいなくなった私は、床に大の字になって転がっている彼に文句をぶつけた。
「ラリーが始まったのは15分前だけどさ、その前に10分間の準備体操やってんだぜ? つまり俺は、もう25分間も動きっぱなしなわけ。あー、喉渇いた。クル、ペットボトル取って」
俊也は私のことを「クル」ト呼ぶ。本名が来栖美波(くるすみなみ)だから、きっとそれを省略しているのだろう。
「たったの25分でしょ。中学からやってるんだから、いい加減体力つけてもらわないと困るよ。ほら、あの2人を見習って」
私が指さしたのは、隣の台でラリーを続けている安斎鈴花(あんざいすずか)と佐倉なつき(さくらなつき)。
2人は高校から卓球を始めたわりに呑み込みが早く、今では私と俊也を超える勢いだ。2人とも素直で可愛く、自慢の後輩達だ。
「どうやったらあんなに上達するんだか」
「クル、俺はあいつ等みたいにはなれねーよ」
「んー、私も無理かな」
私は俊也の隣に座り、ぼんやりと後輩達のラリーを眺めていた。そんな時だった。普段は顔を出さない、顧問の五十嵐先生が来たのは。
「皆、ちょっといい?」
先生の声を聞き、私は集合をかける。
「お疲れ様です!」
五十嵐先生の前に4人が集まると、五十嵐先生はゆっくりと口を開いた。
「今日はね、皆に伝えないといけないことがあるの」
五十嵐先生の表情で、良い知らせではないことが分かった。
「2ヶ月後の個人戦でこの中の誰かがベスト8まで行かないと、卓球部は廃部になってしまうの。正直、今のあなた達じゃ厳しいわね。色々思うことはあるだろうけど、大会に向けて頑張ってね。それじゃ、練習に戻って」
先生が去った後、すぐに練習を再開することはできなかった。
「美波先輩、どうしますか? 練習メニュー、増やしますか?」
鈴花が私に聞き、なつきは鈴花の後ろで俯いている。
「2ヶ月しかないんじゃ、練習メニュー増やしても無理なんじゃない?」
確かに鈴花となつきは運動神経が良いかもしれない。だが、たった2ヶ月じゃ間に合わないだろう。それに、正直面倒臭い。
「それじゃ、美波先輩は廃部になってもいいんですか?」
鈴花の声が震えていることに、私は気づかなかった。
「ショックではあるけど、しかたないんじゃない? 人数だって少ないしさ。ね、俊也」
「そうだな。入部した理由だって、暇つぶしになればいいやって思っただけだし」
「思い出作りって感じね」
私と俊也は頷き合った。
「そうですか。私達、練習に戻りますね。なつき、行こ」
「あ、うん」
鈴花は荒々しく持ち場へ戻り、なつきはおどおどしながら鈴花について行った。
少しモヤモヤする。この気持ちを、私は無視した。
『本当にこのままでいいのか?』
不意の質問に、ぴくりと体が動く。はっとしたのは、自分の心を代弁されたと思ったからなのかもしれない。
「え、今の声、何?」
私は俊也に聞く。
「は? 俺にはクルの声しか聞こえねーけど」
俊也は首を傾げた。
「そっか。じゃ、気のせいか」
私はほっとした。でもまだドキドキしている。
『気のせいじゃない』
子供っぽい無邪気な声。これも、私の聞き間違い。きっとそうだ。
「俊也、そろそろ練習始めよ」
気分を紛らわすたま、俊也に声をかける。
「はいよ」
その後も『無視するな』とか『おーい』とか言う声が聞こえた気がしたが、全部ラリーの音で誤魔化した。
翌日の放課後。私と俊也は、昨日と変わらず鈴花となつきのラリーを眺めていた。
「ほんと、凄いよなぁ」
無意識にため息が漏れていた。
「え、俺? いやぁ、いきなり褒められると照れるなぁ」
俊也なニヤッとしながら私を見る。
「俊也のわけないでしょ」
「え、じゃぁ誰?」
「鈴花となつきに決まってるでしょ」
私は2人を見ながら言った。
「冗談だって。それくらい分かってんよ」
俊也は、2人の方に視線を向けた。
『みーなーみちゃん』
突然名前を呼ばれ、俊也を見る。
「は? ちょっと、何でいきなり呼び方変えるの?」
「え? 何のことだよ?」
俊也は不思議そうに私を見ている。
「今、私のこと美波ちゃんって呼んだでしょ?」
私は俊也に確認する。
「俺が? クルのこと? 冗談はやめろよな」
俊也は笑いながら答える。
「ほんとだって。私聞こえたもん」
確かに、『美波ちゃん』って呼ばれたんだ。これは絶対に聞き間違いなんかじゃない。
「俺は何も言ってねーよ」
俊也の声が先程よりも低くなる。これは彼の昔からの癖。イライラしている証拠だ。
『僕だよ。来栖美波ちゃん』
はっきりと、幼い子供のような声がした。
「また聞こえた。名前呼ばれた」
俊也から、少し距離を取られるのが分かった。
『試合、勝たないとまずいんだろ? 簡単に諦めるなよ』
「いやいや、なるだけ無駄だから。って私、今誰と喋ったの?」
パニックになっている私を見て、俊也は怪訝そうに後ずさりする。
「なんだこいつ。頭のネジはずれたか?」
俊也は立ち上がる。
「俺、トイレ」
そう言い彼は走り去って行った。
『ボク、ここだよ。ボクはここにいるよ』
私は辺りを見渡し、恐る恐るラケットケースの中を見た。
『わんっ!』
子犬のストラップを一瞬見つめ、何事もなかったかのように前を向いた。
『あ、無視したな! こっちを見ろよ』
私は、もう1度ラケットケースの中を覗いた。そして、子犬を見る。
『やっと目が合った。美波ちゃん酷いよ。昨日からずっと無視しちゃってさ。ボクに何か言うことは?』
「わ、わん?」
『わん! って違う! 』
「え。何? あ、ごめんなさい?」
私は首を傾げる。
『よろしい。じゃ、本題に入ろうか。大会、本気で勝ちに行きなよ。全力、出してみようよ。ボク、応援するよ』
子犬の言葉に、私は固まる。そして、じわじわと体が熱くなった。
「あのね、本気出しても意味ないの。今までだって、ずっとそうだったんだから。何回挑戦しても二重跳びできなかったし、空がオレンジになるまで練習しても逆上がりできなかった」
この気持ちが、この辛さが子犬なんかに分かるわけがない。
『そうなんだ。でもさ、今度こそ上手くいくかもしれないじゃん。卓球部、廃部にさせられちゃってもいいの? 悔しくないの?』
「ほっといてよ。あんたに関係ないでしょ?」
私は耳を塞いだ。
『関係ないことないよ。ボクには君を助けるという使命があるんだからさ』
耳を塞いでも無駄だった。子犬の声は、はっきりと聞こえくる。
「私を助ける? なんでそれが使命なわけ?」
私は子犬をぎゅっと握った。
「それは、いいから」
子犬は、苦しそうか声を出す。私は慌てて子犬を離した。
「とにかく、いいじゃない。廃部になったって。私等なんて、弱小チームなんだし。強い部活しか残す気ないんだよ、学校はさ」
『残れるように、やるだけやってみればいいじゃん。方法はいくらでもあるはずだよ』
子犬の反論に、私はため息をつく。
「方法って何? そもそも、どうやって強くなれって? コーチもいないし道具も装置も整ってないこの環境で?」
どうせ私達が卒業してからの廃部だ。そこまで本気になる必要があるのだろうか。
『後輩ちゃん達、可哀想じゃないの?』
「それは…… じゃぁ、尚更頑張りたくない。あんなに一生懸命なのに」
『なら、ワンチャンあるかと思って頑張れば? わんだけに……』
「くだらな。とにかく、私は嫌」
『なかなか手強いな。仕方ない、あの手を使うか。本当は、こんなやり方はしたくないんだけどなぁ』
子犬は、唸りながらボソボソと言っている。
「は? 何言ってるの?」
私が聞くと、子犬は少し間を取って言った。
『ボクが本気を出させてあげるんだよ』
「どういう意味?」
子犬はフゥと息を吐き、予想外のことを語り出した。
『来栖美波。4月10日生まれの18歳。苦手な教科は数学。親にバレるのが怖くて6点のテストを隠している。ボクがお母さんに言う方法はある。隠し場所は……』
この子犬は、どこからそんな情報を入手したのか。そんなことを考えている暇はない。これは完全に私の負けだ。
「わ、分かった!分かったから! しゅ、集合!」
私の声に、鈴花となつきが練習を止めてこちらへ来た。
「美波先輩?」
鈴花は、首を傾げ私を見る。
「顔色悪いですけど、大丈夫ですか?」
なつきは、心配な表情を浮かべている。
「だ、大丈夫。あのね、昨日の話なんだけど、あれ前言撤回。練習メニュー増やそう。大会、勝ちに行くよ!」
「先輩……」
私の言葉に、なつきが表情を曇らせる。
「昨日と言っていることが真逆ですね。やっても無駄、じゃなかったんですか?」
鈴花の声が、沈んでいるように聞こえる。
「確かにそう言ったけどさ、やっぱり勝ちたいなって思って」
そう言い鈴花を見ると、彼女は涙目になっていた。
「なんですかそれ。私となつきはずっと勝つ気で練習してました。いつもだらけていたのは先輩達じゃないですか! 先輩達はいいですよね。引退するまで卓球できるんですから。私達は、来年からできなくなるかもしれないんですよ!」
鈴話は、泣きながら体育館を出て行った。
「あ、待って」
追いかけようとする私を、なつきが引き止めた。
「美波先輩、鈴花はいつでも一生懸命でした。だから、悔しかったんだと思います」
なつきは私に頭を下げ、鈴花を追いかけて行った。
「どうしよう。どうして私、今まで気づかなかったんだろう」
部員がいなくなった体育館で、私は俯いた。
『ね。分かっただろ? 皆、美波ちゃんが本気でぶつかっていくのを待ってたんだよ』
私は子犬をじっと見る。
「私、今までずっと逃げてた。本気でぶつかっても失敗ばかりでさ。失敗するのが怖くなってた。ずっと諦めたふりしてた。私、あの2人のこと傷つけちゃった」
落ち込んでいる私を慰めるように、子犬は優しい声をかけてくれた。
『大丈夫。そのままの言葉を伝えたら良いんだよ。きっと分かってくれるって。ほら……』
子犬から言われ、体育館の入口を見る。
「ごめんごめん。遅くなった」
帰ってきたのは俊也だった。
「なんだ、俊也か」
「なんだって何だよ。悪かったな俺で。なに、誰か待ってるの?」
俊也が尋ねる。
「ん? あ、いや、ちょっとね。それより俊也、今日から本気出していくよ。勝ちに行くんだ!」
「え? は? なんでそうなった?」
ぽかんとする俊也の肩を優しく叩く。
「とにかく、そういうことなの」
鈴花となつきを探しに行こうとした時、2人が戻ってきた。
「美波先輩! 練習中に抜け出してすみませんでした。ほら、鈴花も」
「美波先輩……」
鈴花は、何かを言いたそうに口をもごもごとさせている。
「鈴花、なつき、ごめんね。私が悪かった」
「え?」
「先輩?」
驚いている2人の目をじっと見つめ、私は自分の気持ちを伝える。
「私、今まで色んなことに挑戦してきた。でもどれも上手くいかなくてさ。一生懸命やって失敗するのが怖くて、最初から諦めるようになってた。だから、部活もテキトーにやろうと思ってた」
2人は、頷きながら私の話を聞いてくれる。
「でもね、皆と一緒だったら頑張れると思う。いや、皆と頑張りたい。勝手なことばかり言ってごめん。卓球部存続のために、一生懸命頑張らせてください!」
もう1度、私は2人に頭を下げた。
「顔上げてください。私も美波先輩と頑張りたいです。皆と頑張りたいです。卓球部がなくなるなんて絶対嫌です」
鈴花が、笑顔で力強く言う。
「私も絶対廃部を阻止したいです。皆で頑張りたいです」
なつきも嬉しそうな表情をしていた。
「よし! 皆んなで練習プランを立てよう!」
「はい!」
私達が気合いを入れているところを、俊也は不思議そうに見ている。
「ほら、俊也も!」
私が俊也に声をかけると、俊也はなんとも言えない顔で頷いた。
「お、おー?」
あれから私達は、時間があるだけたくさん練習した。フットワークにスクワット。素振りにノック。どれも徹底してやるのは久しぶりで、きつくてすぐ疲れてしまう。
だがそれ以上に、4人で1つの目標に向かって頑張ることが嬉しくて楽しかった。
大会の前日。皆帰ってしまった部室で、子犬君を膝に乗せてラケットを磨いていた。
『美波ちゃん、いよいよ明日だね。遂にここまで来たね』
子犬君の声は、最初に出会った時よりも小さく聞こえる。
「うん。どうしよう、怖い」
私も、いつもよりも声が小さくなる。
『うん、怖いね。そんなもんだよ。でもさ、今までのハードな練習のことを思い出してみなよ。自信になっているはずだよ』
確かにそうだ。私達は頑張った。もちろん皆のことを信頼している。でも……
「子犬君の言う通りだよ。でもダメだった時のことが頭をよぎって不安になるんだ」
『気持ち分かるよ。たださ、あれだけ一生懸命やったならさ、どんな結果になってもすっきりするんじゃないかな』
そうだね。でも震えが止まらない。ちゃんと見守っててね、子犬君。
快晴の当日。大会会場の前で、私達は門を見つめていた。
「さぁ、皆行くよ!」
「おー!」
ボクが捨てられた時、もうダメかと思った。でも君は、ゴミ箱の中からボクを拾ってくれた。
ボクが諦めかけていた時、君が救ってくれたんだ。だから、次はボクが救いたかった。
1回。たった1回でいいから、ボクに君を救うチャンスを下さい。
だから、諦めないで。どうか、諦めないでいてよ。
帰り道。バス停までの距離を、胸ポケットに子犬君を入れて歩いた。
「負けちゃった」
『でも、かっこよかったよ』
「そう? ボロボロだったのに」
1回戦敗退。それが私達の結果だった。いつも一生懸命だった鈴花となつきが泣いていた。普段能天気な俊也が悔しがっていた。私も、トイレで大泣きしちゃった。
『皆、キラキラしてたよ』
「子犬君の言う通りだったよ。結果は残念だったけど、本気で頑張ったから負けを認めることができた。諦めないで良かったなって思えた。だから……」
『ありがとう』
「それ私が言おうとしたセリフ。ありがとう」
私は子犬君に笑顔を向けた。でも、返事がない。
「子犬君? おーい!」
静かになってしまった子犬君の頭を撫でて、優しくラケットケースにしまった。
朝はあんなに晴れていたのに、パラパラと雨が降ってきた。そういえば、子犬君と初めてあった日も雨が降っていたっけ。
水色の折り畳み傘をさし、家まで走った。
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