1.1年後に死ぬ君が必要なんだ。

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1.1年後に死ぬ君が必要なんだ。

「1年後に死ぬ君が必要なんだ。俺と結婚してくれ。そしてひなたの母親になってくれ、望月日陰」  私は今、若きホテル王、白川緋色からプロポーズされている。  出産時に奥さんを亡くした彼は、自分の出産により母を失ったと現在2歳の息子に知られたくないらしい。  私には学生の時から付き合って来た川瀬勇という恋人がいた。  彼とは結婚を考えていたけれど、私は10年近く裏切られていたらしい。  彼は私とは腐れ縁の小笠原陽子と浮気をしていたのだ。  誰もいらなくなった死をまじかにした私を、必要としてくれる人がいる。  余命1年宣告を受けて、叶うことのないと思った母親になるという夢が叶えられる。  それだけで私はこの申し出を受け入れた。 「ひなた君のお母さんになりたいです。1年だけでも、ひなた君のお母さんになる機会をください」  私の返答に一瞬白川は驚いたような顔をすると、私にそっと口づけをしてきた。 「そのようなことはしないでください。私たちの目的はひなた君にお母さんという存在を教えることだけですよね」 「ああ、そうだった。不快だったのなら謝ろう。ひなたの母親として親子の思い出を残してあげてくれ」 「優しい方ですね、白川社長は。私、お母さんになるのが夢だったんです。だから、社長は私の夢も叶えてくれることになります。ひなた君のお母さんになれる機会を与えてくれてありがとうございます」  私の言葉に気まずそうに、白川社長が婚姻届を出して来た。  私が婚姻届に自分の名前を記入するのは2度目だ。  1度目は恋人であった勇と結婚しようと3週間前に記入をした。  私の部屋で勇と2人で婚姻届に署名した後、会社で受けた検診で問題点が見つかったとの連絡を受けた。  その連絡を受けた時から、あの記入済みの婚姻届の行方を見ていない。 「白川社長、私はこの1年で、2人の人間に私の尊厳を踏みにじったことへの復讐をするつもりです。そのような人の不幸を願うような人間がひなた君の母親になっても良いですか?」  私は母親というものがどういうものか分からない。  でも、私の中の理想の母親は、いつも笑顔で皆に親切で周りの人間の幸せを願うような存在だ。 「君の尊厳を踏みにじった者への復讐か。ますます、理想的な母親だな。俺はひなたには強い母親を覚えていて欲しいんだ。俺の母親は父の不貞で心を壊してしまうような弱い女だった。俺の記憶の中の母親はいつも泣いていたよ。俺は母には、父に復讐して一矢報いるような強さを見せて欲しかった」  彼の母親の話を初めて聞いた。  1年限定でも夫婦になるのだから、これからも白川社長のことを知ることになるのだろう。  このように誰もが羨む全てのものを持った男の発想は、やはり凡人とは異なるのかもしれない。  父親に復讐する母親がみたかったなどと言う息子が存在するとは思わなかった。 「白川社長、心を壊したお母様を悪く思わないでください。裏切りとは人の心を壊すことなのです。私の心は友人と恋人の裏切りで1回壊れました。立ち直って復讐しようと思ったのは、自分の命があと1年だと知ったからです。踏みにじられただけで終わりたくない、彼らに一生消えない傷を負わせてやりたいと思いました。そのような復讐に心を燃やした私が大切な息子さんの母親になっても本当に宜しいのですか?」  私はもう1度改めてひなた君のお父さんである白川社長に確認をした。 「お母さん」になりたいと言う気持ちと、自分は「お母さん」に相応しくないと言う気持ちがせめぎあっている。 「もちろんだ。俺は君はひなたの忘れられない素敵な母親になると思う。そして、俺にとってもたった1人の妻になることを忘れないで欲しい」  私が婚姻届に署名していると、白川社長が優しく囁くような声で言ってくる。 慰めてくれているのだろうか、余命宣告された上に恋人にも裏切られた女を。 「ひなた君を慈しみながら、1年後に彼の手を握りしめ死にます。私を必要としてくれてありがとうございます」  2歳のひなた君に私の記憶は残るだろうか。  命がけで彼を産んだ母親を差し置いて、彼の母親代わりに死ぬことが正解かはわからない。  でも、それは少なくとも白川社長がひなた君の心にとって最善と思った選択だ。  そして「お母さん」になりたかった私は、その正解か分からない選択に甘えさせてもらう。 「ありがとう、日陰。俺のことも緋色と呼んで欲しい。1年だけでも俺たちは夫婦だ」 婚姻届に署名した私の手を握りしめながら緋色さんは愛しそうに呟いた。  彼はモテる男の代表と言われるだけあって、人を勘違いさせるような仕草をする。  彼に「最後の恋」をしそうになる気持ちを抑えながら、私は自分のするべき復讐とひなた君の「お母さん」になることに集中することを誓った。 ♢♢♢  3週間前、私は高校時代から付き合っていた川瀬勇との結婚を考えていた。  私の部屋で手料理を平らげた勇がくつろぎながら言ってくる。 「もう、俺らも付き合って10年以上だから結婚しても良いんじゃないかって母さんに言われてさ」 私も勇も26歳を迎えようとしていた。  彼にときめきとかを感じたことはないが、ずっと同士のように過ごして来た。  高校の時、私は初恋の人と付き合うことが出来たは良いものの裏切られた。 その時、甲斐甲斐しく私を慰めて支えてくれたのが勇だった。  彼を異性として見たことはなくても、彼は私にとって信頼できる相手だった。  そして結婚するなら、そのような安心できる相手であればよいと思っていた。 「ふふっ! おばさん。ここらで妥協して結婚しておけみたいな言い方、正直すぎね」 もう少し私でなければダメだみたいなロマンチックなプロポーズを期待していた。  でも、私だって勇でなければダメだと思ったことはない。  ただ、彼が私にとって居心地の良い相手だったから長いこと付き合ってきた。  私が婚姻届に署名すると満足げに勇がそれを受け取る。 「もう、今すぐにでも届けに行くか? 結婚式とかしたい? 俺、ああいうの面倒なんだけど⋯⋯」  勇には私のウェディング姿を見たいとかそういう気持ちはないのだろう。  生まれた時から近所にいて散々見て来た私のことを、もう見飽きているのかもしれない。  そのようなことを考えていると、何だか寂しい気持ちになった。 「そうだね、私も結婚式とかそういうのは面倒かも⋯⋯」  本当はウェディングドレスを着てみたい。  しかし、私が結婚式をしても私の親族席に母親は来ない。  そういうことを配慮しての勇の発言かもしれないと、私は自分を慰めた。  私はそのようなことよりも、結婚したら自分が母親になれるかもしれないということに胸を膨らませた。  私は自分の母親についての記憶がない。  私が1歳の時に、母は父とは別に好きな人ができて家を出て行ってしまった。  それからは父が私のお父さん兼お母さんだった。  周りも私の家庭の事情は理解していて、私は「母親がいない子」として気を遣われて過ごした。 「お父さんの顔を描いて良いのよ」 保育園の時、母の日の絵を描く際には困ったような顔で先生に言われた。  私は想像した母親の顔を絵を描いた。  父を愛せなくなっても、きっと私のことを思ってくれているだろう笑顔の母親を想像で描いた。 (きっと、いつも笑顔で、本当は私に会いたくて仕方がない優しいお母さん⋯⋯)  私も自分に子供ができたら宝物のように大切に育てたい。  トゥルルルルー。 「あれ、健診センターから電話みたい。何かしら?」 これからの家族計画に胸を膨らませている時に、私は運命の電話をとった。 「いいよ。出て」 勇に促されて私は電話に出た。 「え、精密検査? 分かりました」 会社で受けた検診で気になる点があったから、精密検査をしたいということだった。  わざわざ電話で前もって知らせてくるのだから、よっぽどの事かもしれない。  私は電話を切った後も、胸の鼓動がおさまらなかった。  ふと、勇の顔を見ると複雑そうな顔をしていた。  そして、目の前にあったはずの記入済みの婚姻届はなくなっていた。 「俺、今日はもう帰るな。じゃあ、また⋯⋯」 何事もなかったように勇が帰って行く。  電話先の声は深刻そうだったが、少し内容が聞こえていたのだろうか。 (勇はもし病気が見つかったら一緒に戦おうとか、そういうことは私の為に言ってくれないのね)  途方もなく寂しい気持ちになった。  これからどのような時も助け合っていこうと誓い合うのが「結婚」だと思っていた。  私は母親がすぐにいなくなってしまったから、正しい「夫婦」や「結婚」の形がわからない。  でも一方に欠陥があれば捨てて、次にいけるという柔い誓いは「結婚」ではないはずだ。  気が付くと外は夕暮れだった。  私は何だか不安な気持ちになり、勇の家に行った。 (あれ、鍵が開いてる。玄関に女物の靴⋯⋯)  私と別れた後に、彼は誰か女を部屋に呼んだのだろうか。  心臓が飛び出しそうなくらい胸の鼓動がうるさい。  勇は浮気とは縁がなさそうな信頼できる男だと思っていた。  私が初めてできた彼氏の浮気で苦しんでた時に寄ってきた男。 (地味で真面目そうだから安心してたのに、勇も同類だったってことか⋯⋯)  寝室から声が漏れてくる。 「まったく、病気とかまじないわ。ただでさえ、日陰の家は複雑で結婚には二の足を踏んでいたのに」 「やめちゃいなよ。日陰なんて幸薄そうで、一緒にいるとこっちまで不幸になりそうな女じゃん。結婚すると簡単に浮気できないよ、今みたいに」  漏れる声の1つは私の友人の小笠原陽子の声だった。 「まあ、日陰は言うこと何でも聞きそうで便利だし、美人で良い体してるから結婚しようと思っただけだしな。日陰との結婚がなくなっても、陽子との関係はステイだぞ」 「ええっ! 私は日陰への嫌がらせで勇と寝てるだけだし。私も再来月には結婚するんだからバレないようにしてよ。そうすれば、これからも可愛がってあげる」 「やっぱ、陽子お嬢様は悪くて最高だな」  私を馬鹿にするような2人の声に手が震える。  陽子は、お嬢様で再来月にはお見合いした御曹司との結婚が決まっている。  私はまだ病気の可能性があるだけで、確定している訳ではない。  そのような内々に知らされたセンシティブな個人情報を、浮気相手に漏らしている勇に幻滅した。  私が10年以上付き合ってきた彼氏が、よりによって陽子と一緒に私を裏切っていた。  2人は私を欺いて楽しむような仲だった。 (勇は陽子と浮気してたんだ。結婚しなくてよかった⋯⋯最低な男)  私は気がつけばスマホの録音機能を使っていた。  何か思いもよらぬことがあった時に、私はスマホの録音機能で音声データを録音するようにしている。 (言った言わないで揉めた時の証拠になるって、私に録音をすすめたのは勇だったわ)
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