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トキタと雪の中
愛知に雪が降るとは驚いた。じつに珍しいことだった。
小学生を期待させるだけの薄っぺらい雪が降っている。降っていくところまでは私だってよくぞ小学生たちに夢を見せてくれたと褒めてあげたいよ。でもそこから積もる体力は東海の雪雲にはないのは小さい頃から知ってる。
うっすら習った中学の地理をなぞった。北東か南西の季節風だったかもしれない。もしかしたらどっちも違うかもしれない。やませ?そりゃ絶対に違うでしょう。貿易風?なんか最近習った気がするけれど、どうも地理は使わないから考えていても無駄だと思った。
雑草が白くなりだした。ここは名古屋の南、名古屋市から離れた田舎町を私は歩いている。ただでさえイオンしか行くところのないようなところだから、小学生はそこらじゅうを駆け回る。だから私の町だけちょっと五十メートル走の平均のタイムが早かったりするのだ。
赤と黒のバカみたいにでかいチェックのマフラーを結び直した。住宅街と田んぼの境界線のような駅の帰り道を歩いていた。
「ゔぉおおおーいみんなこっちこっちだよぉおお!!」
「なぁにぃーーー?」
そのやたら足の速い小学生たちが駆け寄ってきた。
「あんねぇ、みてぇ、こおってるの!」
「ほんとゔぉ?」
「ほんとだぁぁぁ!」
半歩隣の水たまりが凍っていた。子供は苦手だったけれど、不必要な声の大きさはよくあることだと思って見なかったことにして、その後に凍り切っていなかった冷たい水が靴にかかって顔をしかめた。
「モモコじゃん、ひさしぶりー」
「トキタ」
どきりとした。脈拍がじわじわと速くなっているのがわかった。誰かと考える暇もないうちに低いような低くないような声でトキタという人だとわかった。むらがる小学生たちの後ろからトキタが出てきた。
トキタ、と返したあとに、肩に中途半端に雪が乗っかってフケみたいになっているのに気づいて急いで雪を落とした。雪が降るとニュースで聞いた時に乾燥するだろうからとリップクリームを入念に塗っていた過去の私に感謝した。
「お前中学校卒業してから全然会ってないからさあ、どっか名古屋あたりで死んでると思ってたわ」
トキタはずずずと鼻をすすった。トキタは中学校の同級生で、クラスが同じだったからこんな私にも卒業後話しかけてくれるのだ。
トキタの傘はかなり大きい。知らないうちにトキタ自身も大きくなっているように見える。雪の中を歩いた。変わらずにまだ雪は降り続ける。もう少しトキタの傘が小さかったら距離は近かったのにと思った。ローファーの間から雪の冷たさがしみる。
「そんなまさか」
「てかさあ、モモコってどこの高校行ったんだっけ?K高だっけ」
「いやN南高校」
「K高とN南ってどっちの方がヘンサチ上?」
「そんなあ。K高人気高くて倍率だって三倍以上よ、あそこらじゃトップ中のトップ。N南は行きやすくて校則がゆるいからってちょっと人気なだけでK高に比べちゃそりゃ偏差値の面じゃ勝てないよ」
「でも人気なとこ行けるだけすげえよモモコ」
「そう、かなあ」
軽率に褒められてしまった、大したところに行ったわけではないし、私がN南に行ったのはトキタには言っていないだけでK高校に落ちただけなのだ。ちょっと関わりがあっただけでもこうして人懐っこく誰にでも関わりに行けるところが私は好きだった。
「そういえば、トキタは地元の方の高校だったっけ」
知らないはずがないだろうとセルフツッコミをした。トキタは地元の隣町のO市内のO東高校というところに行ったところまで重々承知の上で聞いた。あまり知りすぎるのがバレたらなんで私みたいな人が知っているのか不思議がられると考えたからだ。
「んー、Oのね、O東ってとこ」
「Oの方進学したんだ、N南に比べて近いからいいね」
「うっそだお前ぇ、O東についての噂は知ってんだろぉ、『行ったら終わりのO東』いい標語だよな。勉強できないバカばっかだから先生に隠れてタバコ吸うような奴が令和になってもいるんだぜ?」
標語だってもちろん知ってる。性格の悪い人の価値もわかんないようなバカがこそこそとよくあんなところ行くなと言っていたことだった。
「タバコはないけど、N南だってお酒飲んでるのバレて停学になった人いるからそんなどこも変わんないって。そんな行ったら終わりってのも言い過ぎだって絶対」
「いいや違う。絶対質が違う。そっちでやらかした奴とこっちでやらかしちゃった奴は絶対違う」
「未成年飲酒に質もないでしょ」
「あるね!だってそいつさあ、酒もタバコも両方やってて前にはイジメ問題起こして停学も何回か食らってるようなのだし」
「私の高校の方だってろくな奴じゃないけどなあ」
トキタはえぇと声を上げた。家に着いてしまうのが嫌だったのでバレない程度に遅く歩いた。気づかずに珍しく薄く白く積もった田んぼを眺めている。
「マジで、弟たちにもこんな高校行くなよってちゃんと注意しておかなきゃなんだよなあ」
「兄弟いたっけ」
「弟二人」
兄弟の件もわざとだった。弟の名前はハルタにユキタで覚えやすいから覚えていた。ときたまトキタが間違えてはるたなりゆきたなり書いてある持ち物を持ってきているのを見ていたり、コンパス分度器なりが弟の名前になっているのを隣の席になった時に見ていた。
「三兄弟なんだ。珍しいね」
「そうだろ。ユキタってのがいま中2でハルタってのが中1。弟二人は年子なんだよ」
「覚えやすい」
「よく言われるよ。どっちも似ちゃってバカだし、上の弟は来年受験だからなんとかなんないかなあって。塾もたまにサボったりするような奴だし」
「大変だねえ」
「いやなんかごめんなあ、弟なんかの話して」
そう言ってこちらをちらりと見た。袖についていた雪を落とした。そんなこと気にしなくていいのにと返そうとしたけど、なんか気恥ずかしかったし言うような勇気もなかったので心に留めておいた。そこにいるだけで私にとってラッキー極まりないのだあんたは。
「そういやなんだけど、モモコになんだっけ。なんか数学ですっごい大事なこと教えてもらったから一応こんなんでも高校入れたっていうか、まじでありがと」
ぴたりと足が止まった。体循環。頭の中でその言葉を思い出した。そりゃもちろんのこと心拍数が上がっているから、わずかに残った中学校の理科の知識でうっすら体循環ってのもそれはそれは活発に行われているんだろうなあって。
「ああ、どういたしまして、っははぁ」
「なんだったっけ、なんとかの定理か法則みたいな」
「定理か法則?」
「なんかね、数学か理科で使うみたいな感じの」
「定理か法則なんて大体数学か理科かのどっちかだよ」
直近に習った範囲のチェバメネラウス、物理では思いつかなかったけれど(不勉強)中学校のなんとかの定理、法則なんかに何があるかを私の頭は必死に候補で出し始めた。
「なんかなあ、三角形みたいなやつ」
「三平方の定理?」
「そうそれ、それ全くわかんなかったんだけどそれちゃんと教えてもらって理解して、って感じよ」
「でも現に名前出てきてないじゃん」
「モモコだって中学校の内容全部そのまま覚えてるわけじゃないだろ」
私たちは歩き進める。長い一本道で初めてここで曲がり角を迎えた。歩いていたローファーに雪がべっちょりとこびりついている。言われてみりゃ確かに私もさっき地理全然覚えてなかったなあと思い出す。
「とはいえ三平方の定理は覚えとかなきゃでしょ」
「そうでもないぞほんとに。なめんなO東って感じ。ヘンサチ低いって言ってもね、中学校不登校で勉強できない子が集まったタイプの高校じゃなくて、アホヤンキーばっかなの。モモコも一旦O東に一週間くらい体験で来てほしいくらいだね。びっくりするさ。もはや異文化交流くらいだよ」
「そんなかなあ」
そうそう、と返してトキタは黒の大きな水筒の中身をぐいっと飲んだ。
そりゃ行けるもんなら一緒の高校に通えるもんなら通いたいさ。
でもその間には私が言うべきかわからないけれどレベルの差が大きすぎる。N南だって、そこそこ勉強しなくちゃ入れるところじゃない。私のお母さんが学歴なんかにとらわれないような人だったなら私もトキタと同じところに行きたかった。なんでここにいるんだって不思議に思われていいしストーカーかよおって軽くいじられても構わないから。
かといって、トキタは私が隣の席だった時に三平方の定理をやっと理解してやっとO東に入学するぐらいなのだから、無理やりN南に入れなんてできない。そんなの私のお母さんと同じになってしまう。
同じ高校に行って、告白とかその先とかあわよくばとかは望まない。せめてその先は同じクラスであの時と同じように隣の席であってほしい。それでたまに消しゴムなんかをトキタが忘れてちょっと貸してあげるくらいの関係性でいい。同窓会で久しぶりに会った時に名前を忘れずにお前よく変わったなあって気づいてもらえるくらいの親密度でいいから。
「水筒でかいね、部活?」
同じ高校だったら。そう概念をでっち上げていろいろと思いにふけっていた時、最初に出てきたのはその言葉だった。なんと間抜けな。
「お、そうだよ。中学のバスケ、続けてんの」
「そっか、中学の時バスケ部入ってたんだ」
「両親がスラムダンク大ファンで、その影響でバスケ始めたんだよ」
「私のお父さんもリアルタイムで読んでたって言ってたよ」
「リアルタイムでそういう有名作読んでたのうらやましいよなあ。母さんが『ちびまる子ちゃんリアルタイムで読んでた』ってこないだ言っててびっくりしたし」
水筒がでかいことがただ単に弟のやつを借りただけという話だったらどうも話は続かないだろうといやな意味でどきどきしていたので、なんやかんや予想通り部活のために水筒が大きかったから良かった。
「でもほらさあ、勉強面はあんまし良くなくてもさ、O東って部活は結構力入れてるんじゃない?O高校だって野球めちゃくちゃ強くて甲子園常連校と勝てないまでも結構4強に対抗しにかかるレベルだし野球とか強かったりする?」
「そんな。O東はO高校とは違う。ちょっとO高校より田舎にあって治安が悪くて偏差値が低いだけ」
「バスケはどうなの」
「そりゃ他のにも変わらずって感じよ」
「他のに変わらずってどんなのさ」
ゔぇえぇと変な声を出して肩をすくめた。トキタは私よりも背が高いから肩をすくめて猫背になったところで視線は高く、トキタが見下ろさないと目が合わない。ゔぇと言った擬音からよくないのはよく読み取れた。
「結構部活内部ルールみたいなのはちゃんと敷いてあるんだよ。忘れ物したらしっかり報告とか、無断で休んだらグラウンド十周とか先輩にはすれ違ったらちゃんと挨拶とか」
「ちゃんとしたとこじゃん」
「それでも破るような奴がいるのが問題なんだよ!顧問もそういう奴いるの知ってるとはいえやっぱり連帯責任主義だからそういう奴のせいでこっちまで無駄に走らされちゃうんだよ」
「でも中学校の部活そのまま続けてるだけ偉いと思うよ」
そういうことじゃねえと思うんだけどなあとトキタはむすっとした。そういう仕草をあの時もしていたと思い出した私自身にびっくりした。めんどくさいことが起きたら体のどこかをかく。落ち込んだら爪を見る。私はトキタのそういう仕草を好意と一緒に覚えていた。なんやかんや高校に上がってもまだ私はこの人のことが好きなんだとより実感した。
「こないだだってそう。アホな奴が顧問に怒られたばっかりなのにすぐに部活三連続でサボり始めて、それで顧問職員室に帰っちゃったの」
「授業中じゃなくて?」
「そ、授業中にさあ、いきなり先生が怒って職員室に帰っちゃうっていうのはO東じゃよくあることだけどさ、まさか部活でそんなこと起こるとは思わなかったんだよなあ」
「授業中も起こるんじゃん」
「まあねえ」
うっすらと住宅街の中からカレーの匂いがしてきた。カレーの匂いがしたら食べたくなるよねと言いかけたけれど、まだトキタの部活の話なんかを聞きたいような気がしてやめておいた。たぶんトキタも同じようなことを思っているはずだ。
「んふ、でもトキタだって本当に嫌だったらすぐ辞めてるでしょ」
「んなまさか、すぐ辞めれるほど顧問甘いかよ」
「入ってて良かったこともあるでしょ」
しばらくトキタは考え込んだ。
「今のところないね」
「今のところはでしょ」
私もトキタみたいに水筒の水を飲んだ。小さいピンク色の水筒だ。
「中学校の時だってそうだったじゃん。トキタ最初はいつでも辞めたい辞めたい言ってたのに引退する前は入ってて良かった部活同じ仲間たち最高って言ってたじゃん」
「恥ずかしいから掘り返すなよ」
トキタはそう言って頭を軽くかいた。本当に恥ずかしくてかいた清潔感のある頭のかきむしり方だ。
「思い出した」
何が、と返した。
「普通に入ってて良かったこと一個あったわ、忘れてた」
嫌な予感がした。背中じゅうをぼりぼりぼりと知らない人にかきむしられるような。強い強い突風が吹いた。おしろいみたいなうっすい雪が地面から舞い上がった。
「部活繋がりでさ、今部活同じ人と付き合ってんだよ」
ぞくりとした。今まで何度も考えついたことが現実になってしまった。どんな顔を自分でしているかは私にはわからないことだった。聞き間違いじゃないかともう一回聞き返した。そうだと言った。その通りで聞き間違いではないと言った。
「いや高校はやっぱりバカでどうしようもないやつばっかなんだけど、その人結構ちゃんとしっかりした人なんだよ。珍しくってつくよ。いうて自分の方がバカでしかないっていうか。どこにでも例外っているんだなって」
「顔も結構整ってて、今すぐ写真見せたいぐらいなんだよ。学年中じゃ結構有名なぐらいにはね」
「O東のバスケ部って男女混合で練習するタイプのバスケ部だったから気になり始めて話しかけるのにさほど距離はなかった。中学の時は男バス女バスで別々だったからそこんところよくなったなって」
「中学校は違うだけで家がめちゃくちゃ近いってことに気づいて、最近はそこのイオンで一緒に映画見に行ったんだよ」
「ここらじゃあんましいい感じの遊びに行くスポットないからさ、週末はちょっと電車でO市まで行って遊びに行ってんの。ほらO東ってO市内なわけだから、二人とも定期圏内で結構都合がいいわけ。O市内の図書館なんかばっかみたいにでかいからテスト期間の時なんかよく使ってんだよ」
「今日も雪が降るって教室でニュースになってて、それでその人雪合戦したいって言い出して、わざわざ学校に雪合戦のためのセット持ってきたんだよ。まあ結局そんなに降らなかったからできなかったんだけど、残念だよなあ」
「その人N南落ちてO東来ちゃっただけあってさ、学年の中でも成績良くて推薦狙ってるって言ってたの。だからちょくちょく勉強教えてもらってて」
それで得意教科は物理に数学で、んにゃんにゃ。言っていることが頭に入らなくて、どうしてか聞いてみようと心掛けてちゃんと相槌を適度に打っているのに処理が追いつかない感覚がしている。していることは全くひどいことなんかじゃない。花が成長して実を結んで、そのくらいには自然なことなんだよ。私がその間にずっと取り残されているだけなんだ。
振り向かないで!と心が叫んでいた。それじゃ私は手遅れだった。すでにトキタは振り向いた上両思いになって付き合って恋人関係になっているのだ。手はもう繋いだとして、それ以上に、人前じゃ言えないことだってしているかもしれないんだ。
告白は最初からしないと決めていた。同窓会でおう久しぶり変わったなと言われるぐらいにして。付き合うなんてことはトキタは一生しないで。私がトキタを好きである限りに一生独り身でいて。
「写真、見せて」
絞り出して声を出した。付き合い始めたからか嬉しそうなのが気に入らなかった。モテてえとずっと私の隣でつぶやいていて。それでそんなん言ってる限りじゃ無理だねなんて断言させ続けて。解釈違いを起こしていた。付き合うなんてあんたらしくないでしょう!
「おう!見るかー?」
びっくりマークをつけないで。嬉しそうにしないで。私は内臓がミキサーでかけられて昨日食べたほうれん草スープみたいにされちゃいそうなのに?一人だけ嬉しそうにするなんて裏切りに違いないでしょ。
えーとどこにあるかなと莫大な写真フォルダの中からその人の写った写真を探している。その莫大なフォルダの中に私は、一枚だけでもいいから写っていて。
にやにやしながらこちらにスマホを差し出した。浮気なんてしないつもりならそんな顔しないで。思ってもない眼中にもないならそんな顔を見せないで。これ以上私に顔を見せないで。
「どうだ、すっごいいいでしょ」
中途半端な顔立ちだったなら、適当に『優しそうな顔だね』と言って私は逃げたはずだったのに、確かな実力が私にそうさせなかった。それと同時に、私はこの人になれないことを悟った。
「私、ここ左行ったところで家だから」
これ以上ここにいて私はトキタのためになる言葉を言えるような気がしたので、そこに家があったのは不幸中の幸いだった。
「またなぁ、モモコー」
トキタはそう言って手を振った。たぶんその『またな』で私はもう一度トキタと向き合える気はしないのだ。小学生を散々騒がせた雪はいつの間にか静かに降り止んでいた。
「じゃあね、時田」
トキタと会っていた時間は無駄じゃなかったと私の心を洗脳した。そうだ、この失恋は経験だ。ここでちゃんと学生時代に経験しておいた方が、私の心は、人生は俯瞰的に見ればきっと豊かなものになる。
雪はもう降らない。お風呂場で思いっきりに泣いてやる。もし私がシンガーソングライターにでもなったらこれをネタにしてやるのだ。トキタを好きだった時間は楽しかったでしょう。トキタが同性なことを忘れるほどに。
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