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イヌについて語ろうか。ついでだ、ネコのことも少しは語ろうか。これは断じて「イヌ」という呼び名をつけられたタヌキの話ではない。
全てのイヌは愛されるために生まれてくる。イヌに限ったことではない。全ての愛玩動物は飼い主からの愛情を知り、その身に受け生涯を終えることを存在意義とする。何故なら彼らは愛玩動物だからだ。
それ故に彼らは管理されなくてはいけない。それぞれの生態に相応しい環境で飼育されなくてはならない。何故なら彼らは愛玩動物だからだ。
彼らは人が勝手な理由で作り出した種であり個体である。
だからと言って人が彼らの命を玩ぶ権利など何処にあるだろう。
去年は涼しい。今年は暑い。来年は全く読めない。そんな気象条件の下で愛玩動物は外で生きていけない。
コンクリートの地面は熱い。目玉焼きが焼けるのではないかというまでに熱い地面は肉球を文字通り焼く。桃色の肉球は想像でしかない。
年に何回台風は来るだろう。嵐は人の命を拐っていく。それより小さな動物の命など、誰かが守らなければ一掃される。
人が透明で清潔なミネラルウォーターのボトルを飲む横で、何故バケツに入った泥水を飲まされなければいけないのだろう。
愛玩動物はおもちゃではない。一部の人はそんなことも忘れて愛誤活動に精を出す。それはただの自己満足ではないか。
よくペットを外飼いにしようとする人がいる。もしくは室内と外を自由に行き来できるようにする人がいる。ペットの自由を尊重して、人は言う。
しかし人の言う「外」とはどこのことだろう。一度外に出たら戻って来れないかもしれない。外では鉄の馬が走り回っている。
人は忘れている。「外」は人の手が入った「庭」ではないのだ。外では外のルールがある。それは人の理解できない野生の法だ。
要は、イヌネコはしっかりと飼育して最期まで看取ってもらいたい。捨てないでもらいたい。見殺しにしないでもらいたい。
あくまで「もらいたい」という願望である。実際には人はよくバカをする。それは人である人の方がよくわかるだろう。
人は時にわざと難しい言葉を用いる。それは理解させないためである。それは理解していると思い込ませるための手段である。だがそれらに意味はあるのか。
人語は人にしか通用しない。それも統一された知識を持って教育され、教え込まれたという前提があってこそだ。
イヌに読み書きなぞ教えるものか。教えてもらっても覚えるものか。イヌには既に他の言語がある。
イヌもネコも他言語を覚えるほど暇ではない。遊び、食べ、眠ることに毎日忙しい。人がそうつくったのだろう。彼らは融通の聞く道具ではない。
外で旅などさせられたら眼もつり上がるというものだ。「外」の「森」はそれだけ酷しい。
人に獣を飼い慣らせるか。人は無駄な胸を張ってはいと答えるだろう。だが当の獣は興味のない顔をして無言を貫くだろう。
イヌちゃんはご主人が好きですか? 散歩に連れてってくれる人が好きです。あとおやつ。
ネコちゃんはご主人が好きですか? ちゅーるをくれたら撫でさせてやってもいい。シャンプー嫌。
人は本当に飼い慣らせているのだろうか。近所のイヌネコの返事は味気ない。
人は獣を飼い慣らしているか。牙を抜いて首輪を着けて、都合が悪くなれば命と居場所を奪うか。それでもまだ、人は獣を手の中で操っていると言い張るのか。
手に負えないから、今、火が立っているのだろう。消すことが困難なたき火を、何故人は次々と起こそうとするのだろう。イヌは不思議でならない。
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