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イヌじゃない
タヌキとキツネの話である。奴らは近所の何処にも住んでいない。そこが我らとの境界線である。
我らイヌはタヌキに似ている。というか、明らかにネコより近いと思う。キツネもだ。だが人と住めるのはイヌとネコだけだ。
奴らは違う。いや違う。イヌネコが他と違うのだ。
たまにタヌキと話をする。
最近どうだい。
タヌキは答える。
毛が抜けて抜けて、ハゲそうだ。
疥癬症の気がした。そいつから距離を取った。我はハゲたくなかった。
結局はただの換毛期だったのだが、あれになればタヌキは数週間で天国行きらしい。
それはさておき、狐狸事情も様々である。やれ巣作りだ、やれ子作りだ、やれ子育てだ、やれ引っ越しだ。奴らも奴らで忙しいようだ。
ただ、我は思う。奴らには明日があるのかわからないのだ。数分後には息が絶えているかもしれない。数分後には車に牽かれてただの肉になっているかもしれない。銃で撃たれているかもしれない。食われているかもしれない。側溝に嵌まっているかもしれない。
次の瞬間に何が起こっているのかわからない。その可能性から守ってくれる主人はいない。
奴らはそんな世界にいる。我らが知らぬ「外の世界」だ。
我らは甘えているだけなのかもしれない。人の作った「庭」の中で、温かい毛布に包まれて眠ってもいいという名札を貼られたことに。値札を貼られ、安全な檻の中に入れられたことに。
奴らは駆けていく。木の葉の舞う森の中を。其処しか奴らは知らないのだ。そして、其処が奴らの居場所なのだ。
狐狸は可哀想だろうか。首輪をもらえない獣は可哀想なのだろうか。
可哀想なのは奴らを可哀想だと思っている愚かな者どもだ。そんな者ほど奴らにバカにされるのである。
昔ほど化けなくなったと奴らは言う。その昔がどれくらい昔なのかは知らない。昔、なのだろう。
きっと人がマンモスを追いかけていた頃の話に違いない。
化けても気づかれなくなったそうだ。人には映画だかゲームだかラノベだか課金だかクラファンだか、実に様々な楽しみができたらしい。その中でも夢のようなことを現実にする、まさにそれまで化かされていたことを今度は人が形にしでかした。
慣れてしまったのだ、人は。もう、多少のことでは驚かない。感性というものを失ってしまったかのように、人は冷たくなった。天ぷらを揚げずにテンプレなるものを掲げ、悲劇を喜劇だと傍観しては皮を剥がれる。
それは本来化けるものの性分だったはずだ。
タヌキやキツネが楽しむはずの分野を人は侵した。
奴らは化けなくなった。
絶世の美女である妲己に化けてもオスには交尾できればそれでいいらしく、キツネは誉められない。隆々とした筋肉を持つ日本男児に化けてもメスには金の方が大切らしく、タヌキは讃えられない。かぐや姫も乙姫も古すぎる。灰かぶりを望むくせに魔法使いは想像しない。
なんてつまらない。タヌキとキツネはただの毛者に成り下がらなくてはいけないのか。奴らは御立腹である。
タヌキとキツネは走り去っていく。
人にはもう化かされるだけの価値がないのだと。昔は良かった、今はこうだ。そんな風には奴らは言わない。今さらなのだ。今さら言ったところで全ては遅い。
奴らは人から離れるべきなのかもしれない。
そんなことを言ったとて、我らはイヌである。人から離れられない。
国が違ってもイヌは人を見て、人にすり寄る。居心地がいい場所を求めて歩き回る。
何と言われようと、我らはイヌである。イヌ集団なのである。
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