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イヌ共済
しかしてイヌイヌ。我らとていつまでも駄犬でいるはずもあるまい。
人は変わる。人は捨てる。命を容易くもてあそぶ。たとえそれが同じ人の命であろうと、人はそれを遊戯として転がし始める。
人は思い上がっている。この場所全てが自分達のものなのだと。自分達こそ一番偉いカイヌシサマなのだと。
タヌキやキツネこそ知っている。外の森には生まれながらに「化け物」として生を受けた生き物がいるということを。
ネコは知っている。人ほど奇妙な生き物はいないのだと。
イヌは知っている。人が我らに何を求めているのかを。
人はきっと寒いのだ。温もりを忘れて震えている。だって人には毛皮がない。このふさふさな毛を見よ。あ、今換毛期だった。
人は愛したいのだ。愛した分だけ自分も愛されるのだと信じている。それが間違った愛誤だとしても、自分は正しいと信じて泥沼に落ちている。
だから、イヌもどんな扱いをしてたとしても人の側にいてくれるだろうと信じている。だってイヌなのだから。
我らは人に愛されることを知っている。人が我らに教えたのだ。だが、我らはタヌキやキツネやネコとは違う。長い目で人を見ることができない。
我らはそれほど賢くない。待ては待ちきれない。お手はおかわり催促。おかわりもおかわり催促。ダメなことはちゃんと守ろう。ほら、褒めてもいいんだぞ。
タヌキとキツネは山から学ぶ。人がどれ程愚かなのか。木の葉に埋もれたどんぐりときのこを探す時のように、奴らは人を値踏みする。
そうして言うのだ。
化かしてやれ、と。
奴らにとって人は愛するか、愛されるかの対象ではないのだ。自分達にとってどれ程化かすに値するかの価値しか持たない。それは昔から変わらないことである。
ネコは路地裏で行う集会で学ぶ。行われないはずの集会の報せが回り続ける限り、人は奴らを満足させられていない。
奴らにとって人は遊び相手なのだ。互いの距離は近づいている。そう信じたいのはネコも人も同じであって欲しい。たとえ草むらの中に小さなネコたちの死骸が山積みになっていようと。
それに人が気づかないからネコは化ける。長い年月を生き抜いて、尾を分け、バケネコとして集会を仕切り出す。
では、我らイヌはどこから学ぶ。
イヌは人から学ぶ。人の足元に座り、一歩後ろを歩き、お膝下で飯を食う。そして、人に心を許す。信頼する。助力する。従う。
全て、人から学んだことである。
愛されることも。
愛することも。
憎むことも。
恨むことも。
可愛いだろう? 愛らしいだろう?
全て、人が我らに教え込んだものだ。
コブタ、タヌキ、キツネ、ネコ♪
その中にイヌはいない。化けることと、人を疑うことを知っていた奴らの中にイヌはいない。
だから間違えるな、ニンゲンドモよ。我らに向けた手のひらを返すな。我らイヌは環境に順応する能力を持った生き物だ。我らは愛されることと愛することを学ぶ生き物だ。
それらをもし覆すなら、我らはこの姿を化えようぞ。
人は我らを化けさせる術を生んでしまった。我らは化ける存在ではないのに、何故、何故、そんなことをするのか。
人は何故そんなにも憎もうとするのか。死した後も憎み恨み怨むなど、疲れるだけではないのか。
人は学ぶ。そして学ばない。いつの時代も、本当に大切なことを学ぶのは自分たち人間の行いからなのに。
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