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浅野明那
この状況をあの幼なじみが見たら何と言うだろう。
浅野明那はマスクを外して息を吐きそんなことを考えた。
運転席から見える景色は去年とはがらりと様変わりしてしまった。ウイルスの蔓延する新世界を幼なじみが迎えることはなく、取り残された浅野は道しるべを失った気分だ。
十二年前、浅野は幼なじみだった伊庭雨夜と共にとある男に拉致された。
親族はとうに彼女を亡き者として扱っている。そして、世間までもがあの事件を忘れつつあった。
どんな凄惨な事件さえ、当事者たちを除けばすぐに風化してしまうものだ。世界がパンデミックに見舞われている現状では尚更だ。
それでも浅野はずっと諦めきれずにいた。
雨夜は生きているのではないか。『あの家』をくまなく探せばどこかにいるのではないか。そんな気がする。
愚かなその考えを打ち消すように彼は煙草に火をつける。そこへ一人の女性が足早にこちらに駆け寄ってきて後部座席に乗り込んだ。
「お疲れ様です」
浅野が声をかけるが女性は無言のまま彼を睨んだ。
浅野は煙草を灰皿に押し込んでマスクを戻した。彼女が窓を開けるのに合わせて彼もまた窓を開けた。バックミラー越しに視線が刺さり続ける。
マスクを外すな、話すな、煙草を吸うな。
現代ではこの三つのワードは目だけで相手に伝えられるようになった。
了承と謝罪のカードを掲げるように片手を上げスマホの画面を背後に向ける。次に向かうホテルと客の名前、それからコースの時間がそこに表示されている。
彼女は軽く頷きシートに体を預けた。それを合図に車がゆっくり発進する。
この新世界で評価できる変化といえば、マスクのおかげで表情が読まれなくて済むようになったことだろう。
――そんなにカリカリするんやったら出勤してくんなやクソ女が。
隠れた表情が語る。
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