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1
不動産屋の言葉はどうにも胡散臭くてかなわない。
岩瀬康一は話し続ける不動産屋の声を耳から耳へ素通りさせながら思った。
長身でこざっぱりとした顔立ちの不動産屋の若い男は、作り笑いを浮かべながら自分が今紹介している部屋の利便性を語り続けていた。
駅には十分以内で行けます。雨の日だったら百メートル先にバス停があります。近くには大きな公園もあります。ディスカウントショップも歩いて五分のところにあります。コンビニも駅との間にあります。あれもあります、これもあります。住めばその便利さに圧倒されますよ。
便利さに圧倒されるなんて言葉は初めて聞いた。岩瀬は不動産家のよく動く口元を見ながら思った。
便利さなんてただ便利だと思うだけだ。この部屋の周辺にどれだけ便利なものが溢れていようと、普段は会社に通勤しているわけでもなく部屋にいるのだ。気になるのは食料品を売っている店までの距離ぐらいだ。それ以外の何物も俺の心を掴まえはしないのだ。もちろん目と鼻の先に現役アイドルが住んでいるというのなら話は別だが。
そもそも不動産屋は肝心な質問に正面から答えようとしていない。そこが岩瀬には気になっていた。
岩瀬にとっては急な引っ越しは気乗りのしないものだった。
岩瀬が今まで住んでいたアパートは東京二十三区内にあり、駅まで五分とかからなかった。だが年季は相当に入っていた。間取りも六畳一間のみで風呂トイレ付きだったが、風が吹けば外壁がビシビシときしみ、雨が降れば壁に水跡が滲み出た。台風が来た時には建物全体がガタガタ揺れ、もはやこれまでかと観念した事も何度もあった。その代わり家賃は激安だった。岩瀬にとってはパソコンとスマホさえあれば、アパートは寝るためだけのものだったので不満はなかった。だが彼女が泊まりに来た時には、もっとましな部屋を探した方がいいな、と思ったりもした。それでも駅近、激安の家賃を考えれば満足できた。それが急遽引っ越す羽目になったのは大家が大手不動産屋の口車に乗ってボロアパートマンション化計画を検討し始め、遂にアパートの取り壊しが決まり、岩瀬は否応なく追い出される事になったのだ。
同じ家賃で探せる部屋は都内にはまったくなく、駅を変えて西へ西へと探し続けたのだがなかなか見つからなかった。迫って来る退去の日まで残り数日しかなく、新しい部屋に住むための手続きを考えればタイムリミットは目前だった。
そしてようやく見つかったのがこの部屋なのだ。
しかし六畳と四畳半の和室に三畳の台所付き風呂もトイレも付いていて前の部屋より安い家賃というのは、都心から離れたとはいえあまりに条件が良すぎた。散々調べたこの辺りの他の部屋と比較しても激安なのだ。賃貸アパートの家賃にも相場というものがある。値崩れしないように地域の不動産屋諸兄が値段を調整しているのだ。それなのに相場より突出して安い家賃である。岩瀬にはそこが絶対に気になっていた。
「話は分かったけど、それにしてもここの家賃は安すぎだろう。他でこんな家賃の部屋は見つかりゃしない。それがなぜだかを聞いてるんだ」岩瀬は話を止めない不動産屋の演説に割って入って言った。
「なぜと言われましても……」その話になると不動産屋の饒舌は影を潜め、どことなく口ごもっているように感じられた。「確かに家賃は格安です。でもそれは大家さんのご厚意です。大家さんは、まあ奇特な方でアパート収入を一切気にしないんです。何しろここら一帯の地主さんですから。住む処を探している人に安い家賃で部屋を提供してあげたいと願っているんです。家賃に関しましては当店に一任されております。当店も大家さんのご意向に沿うべく格安の家賃で部屋を提供している次第なんです」
まったくもって胡散くさい。いや、絶対これ嘘だな。岩瀬は思った。そんなボランティア精神の塊のような大家は見た事も聞いた事もない。それにアパートは築二十五年ほどだと聞いているのに、今自分が立っているこの部屋の壁の白さ、染み一つない天井の綺麗さ、漂ってくるイ草の匂いは明らかに新調の畳だ。トイレの便器、風呂の浴槽まで新しい。これは一体どういう事だ。岩瀬が不動産屋に尋ねると、
「リフォームです」若い男は、なんだそんな事ですか。見ればわかりますよね、と言わんばかりに答えた。
リフォームしたかどうかを聞いているんじゃない。どうして格安の家賃の部屋をわざわざリフォームしたりするのかという事が重要なのだ。その理由が語れないのか。
となれば……。岩瀬はいつまでも美辞麗句を並び立てている不動産屋にいよいよ直球の質問を浴びせてやろうと決めた。
「つまり、俺が聞きたいのはこの部屋って、もしかしたら事故物件ってやつじゃないのか、って事なんだ」
事故物件という言葉を聞いて不動産屋が身構えたように岩瀬は感じた。
「おやおや事故物件ですか」不動産屋がおどけるように言うのを聞いて岩瀬はいらっとした。
「ここの家賃が安い理由は事故物件だからじゃないのか」
岩瀬が再度同じ事を言うと、不動産屋は作り笑いを更に増して答えた。
「そもそも事故物件と一言で言いましても色々なパターンがありますからねえ……」
また始まったと岩瀬はうんざりした。不動産屋が演説節で語りだした。
「……例えば事件性の全くない事故ですとかあ、火事、地震による災害といった不可抗力なものもありますしい、近所に暴力団が住んでいるとかもありますう。それに自殺ですとか最近多いのが孤独死ですしい、それから事件性の高いもの~、部屋の中で殺傷沙汰が起きたとかあ……」
不動産屋の言い様が粘っこくなった。きっぱりと語れない気持ちの表れが言葉に出ている。
「……殺人ですとかあ、まあ、色々な物がありますう。でも安心してください。この部屋では環境の悪さなどは一切なくう、過去に火事とかの災害が起きた事も一件もありません。ましてや自殺や殺人なんてえ一度たりとも起きてはいません。天に誓ってもいい。この部屋で人が死んだなんて事は今までこの方一度だってないんですう」
何が安心してくださいだ。岩瀬は心の中で毒づいた。お前の言い方が一番俺を不安にさせてるんだ。天に誓うって、神様を信じてもいないだろうに。
「本当かなあ」岩瀬が信じかねると言った風に言い返すと、不動産屋は力強く答えた。
「本当です。この部屋ではただの一人も人は死んではいません」
そこまで言い切るのなら嘘ではあるまい。岩瀬は判断した。どう考えても怪しいのだが迷う時間も最早ない。先立つ金もない現状では背に腹は代えられないのだ。決めなくてはならない。ここで決めなくてはそれこそ公園での野宿すらちらついてしまう。
結局、岩瀬は事故物件ではないという不動産屋の言葉を信じて紹介されたアパートの部屋を借りる事にした。
ここに決める、と言った時の不動産屋のほっとした顔。絶対に何かがあるのだがそれがなんであるかは岩瀬には分からない。隣近所に聞いて回ればこの部屋の格安の本当の理由を教えてくれるかもしれないが、岩瀬には見も知らぬ他人を訪ねて回る気などさらさら起きはしなかった。
不動産屋が細かい書類の話をしている時にも岩瀬は集中力を欠き別の事を考えていた。
岩瀬が自ら立てたライフプランによれば、直近で買った株が買値の三倍、いや少なくとも五倍の値を付けて高騰する筈だった。タワーマンションに住んでいる筈だった。
岩瀬は会社に入って五年ほど経ってから株を始めた。初めて株を買ってから今まで、まるで未来を見通せるかのように、勘が神がかり的に冴え、買えば値上がりする株を買っては売り買っては売りを繰り返し資金は順調に増えていった。単につきがあっただけの売買実績も次から次へうまく行くと勘違いが起こりだす。自分の投資技術は天性のものであり、名だたるトレーダーすら凌駕する天に選ばれた男なのだ。このまま行けば億すら夢ではない、いやむしろこの流れに乗ってこそ成功を手にすることが出来るのだ。夢ではなく現実、この機を逃した者こそ先の見えない愚か者なのだ。会社で働くなど最早時間の無駄でしかない。少ない時間で、会社で働く何カ月分にもなる金を稼げるのだ。
そこで会社を辞めた。
順調に運ぶ株売買。更なる一手を打ち資金を倍々にする。タワーマンションも新しい事業の資金も全てを手に入れる。俺はそれが出来る男なのだ、と岩瀬は傲慢の極みに達した。リスク回避もへったくれもなく全ての資金を、マスコミに持て囃されているIT業界の寵児たる男が経営する会社の株に一点集中次ぎ込んだ。
目論見はうまく進み株価は順調に上がった。
今週中には決着をつける。笑いの止まらない爽快感と安い給料で働いている元同僚の事を思う優越感に浸った。勝負の日が近づいてきた事に息巻いて眠りについた。
次の日の朝、岩瀬はニュースでIT業界の寵児が金融商品取引法違反で逮捕された事を知った。
開いた口が塞がらなかった。
更に出てくる不祥事の数々。株価はダダ滑り的に暴落した。まだ会社は潰れてはいない。ただ同然まで株価は下がっているが上場廃止にはなっていない。しかし売りたくても売れない状態が続いている。その内に破産のニュースが流れるだろう。チャンスはまだある、と見栄を切っても動かせる金は全て使ってしまい身動きできない状態に陥っているのが岩瀬の現実だった。そこにきてのアパートの引っ越し。
いわくありげな部屋で暫くは暮らすしかないのだ。岩瀬は観念した。いずれまた羽振りのよくなる時もくるだろう。それまでは静かにこの暴風をやり過ごすしかないのだ。
2
山本頼人はM駅の改札を抜けて外に出た。
改札の外には岩瀬が立っていた。二人は三年前までは同じ会社に勤めていた。会社に入ったばかりの山本に先輩社員として色々な事を教えたのが岩瀬だった。
「やあ」と岩瀬が手を挙げて挨拶すると山本は軽く頭を下げた。年齢は岩瀬の方が山本より四つばかり上なのだ。
二人は横に並んで岩瀬の引っ越したアパートへ向かった。山本は岩瀬の引っ越したアパートを一目見ようという好奇心で満ちていた。岩瀬はかつての同僚であり数少ない友人を部屋に招いて寂しさを紛らわしたいという気持ちだった。
駅前から大通りを横切り静かな道へと入った。車の走りを一台も見かけない閑静な住宅街だった。ただ住宅そのものには新しさはない。ずいぶん前から住宅は景色を変えることなく建ち続けているのだ。
暫く歩くと山本が岩瀬に話しかけた。
「随分、西の方に引っ越しましたね」
「前の家賃が安すぎたんだ。いざ引っ越すことになったら同じ家賃でいくら探しても部屋は見つからない。ちょっとづつ値段を上げてそれでも見つからないので西へ西へと流れたってわけさ」
「株は相当やられたみたいですね」
言いながら山本には岩瀬が仕事時間中にもかかわらず株に熱中しているかつての様子が脳裏に浮かんだ。ついにはこの人は課長に注意された事に腹を立て、誰がこんな安月給の会社で働いてられるか、と言って会社を辞めていったんだよな、とその時の光景も記憶から呼び起こされた。その安月給の会社で今なお自分は働いている。そう考えると山本は情けなくもなるのだが、当の岩瀬が株で大儲けした後、ほとんど全ての資金を失ってしまったとなると、おかしくもあり複雑な気持ちになるのだった。
「ああ、本当にまいった。あの会社が金融商品取引法違反をしたところまではそれほどの問題じゃなかったんだけど、会社の利益を水増し株価を操作しようとしたってんで証券取引法違反、子会社の企業価値を過大評価させてた粉飾決算、有価証券報告書の虚偽申告、怪しい団体との取引によるマネーロンダリング疑惑、CEOの背任騒動、関連会社社長の自殺、もう何でもありでメディアの連日連夜の報道も凄まじかったな。下方修正程度なら可愛いもんだ。でも犯罪に巻き込まれているみたいな報道を連日されたらだめだよな。おかげですべての金を失った。今は全く身動きできない状態だ」
「でも岩瀬さんは少ない額から何千万も資金を増やせたんですから、再チャレンジできるでしょう」
「まあ、そうだな。ようするに安くても大きく化ける株を見つけられればすぐにでも盛り返すことは出来るんだ。証券会社の口座の額が七千万になった時には、安い銘柄に群がっている奴らがおかしく感じてさ。おいおいそんな一円二円の値幅でじっと待ってるんじゃねえ、見てるだけじゃおもしろくもおかしくもないだろう。俺が全部買ってやる、みたいな感じだったんだけど、今じゃ後一円下がってくれみたいな売買をしてる始末さ。大化けだ、大化けの株を見つければすぐに損失なんて取り戻せるんだ」
岩瀬の言葉に山本はどことなく空虚さを感じた。
岩瀬は歩いている途中で、いきなり立ち止まった。
何だろう、と思い山本も立ち止まると、岩瀬は道の脇に落ちていた発泡スチロールの箱を拾い上げた。長方形のしっかりした形状をしており、捨てたのではなくどこかの家に置かれていた物が風で飛んだようだった。
岩瀬はそれを拾い上げるとそのまま手に持って歩き出した。ゴミ収集場にでも捨てるつもりなのか、それとも発泡スチロールの持ち主の家を知っていてそこまで運ぶつもりなのかな、と山本は想像した。
いくらか歩くと岩瀬が指差して言った。
「あれだ、あの木造二階建てが俺の新しい住まいだ」
岩瀬の指差す方向に白塗りのアパートがあった。アパートの前には駐車場がある。
「結構綺麗な感じじゃないですか。もっと古ぼけたイメージをしていたのに。前のアパートは相当でしたからね」
「中もリフォームしてあって新しい雰囲気だ」
そう言うと、岩瀬は手にしていた発泡スチロールを地面に投げ出した。
「ちょっと待っててくれ」と言っていきなり道路脇の家の塀に体を向けた。
何だろうと山本が見ていると、岩瀬はズボンのジッパーを下ろし放尿をし始めた。
えっ!、と山本は目を疑った。アパートはもう目の前なのだ。膀胱がパンパンになってしまいとても我慢ができない状態だったのだろうか。そんな素振りは少しもなかったのに、なんでわざわざ人の家の塀に向かって放尿する必要があるのか。
山本は規則に厳しい方ではないが最低限のマナーで世の中に接してきた男だった。立ちションなどという行為はした事もなければ見た事もなかった。岩瀬は山本より年上だ。世代が違うのだ。山本は呆れながらも口に出して注意はしなかった。
アパートに着くと岩瀬は山本と一緒に部屋の中に入った。岩瀬はそのまま一直線に奥の部屋まで行き、庭への窓を開けると手にしていた発泡スチロールを隅に投げた。何かに使うために持ってきたんだな、と山本は岩瀬の後ろにつきながら思った。
「いいですね、リフォームされてる部屋って」
山本は奥の部屋を見回しながら言った。決してお世辞ではなくそう感じていた。山本もアパート暮らしだった。築五年とまだ新しい部類なのだが押入れの少なさ、日当たりの悪さ、前の住人が付けた壁の黒染みなどに嫌気がさしていた。
岩瀬は台所に戻ると飲み物を用意し始めた。山本は庭に出る窓から外を眺めた。一階角部屋の庭は僅かばかりの広さで土が剥き出しになっている。その庭にはなぜだかあちこちに穴が掘られていた。等間隔ではなく適当な感じで穴は掘られている。深さはそれほど深くない。軽く土を掘り返した程度の穴がいくつも空き、側には掘った土が盛り上がっていた。種でも植えて家庭菜園でもしようとしているのだろうか、山本は訝った。あるいはモグラの穴ということもありえる。何しろここは都会を西へ西へと移動した田舎町なのだ。
庭は何の敷居もなく隣の部屋の庭と繋がっている。一階は三部屋あり三部屋共通の庭だった。
山本は、先ほど岩瀬が発泡スチロールを投げた隅に目をやった。塀があり塀の外は道路である。その塀の隅には物が山積みされていた。サンダルや靴の類から紙袋、箱、絵の折れた箒、バケツ、骨の折れた傘、先ほどの発泡スチロールが上に載っている。
捨てるところがなく取り敢えず庭に放り投げたのだろうか。山本は潔癖症ではないがゴミはゴミ箱への習慣が身についている男だった。無造作に積み上げられているゴミの山は山本にゴミ屋敷を連想させた。
岩瀬がコップに氷とジュースを入れて戻って来た。二人はテーブルを前にして絨毯の上に座った。
「駅から近いけど静かなところさ」岩瀬は言った。
「そうですね」山本も静かな場所だと思った。道路脇なのに人は通らず、車もたまに通り過ぎるだけだった。
「億ションの五千分の一の家賃さ」岩瀬は苦笑いしながら言った。「俺のプランじゃ、億ションを手に入れたら天井には百インチ対応のプロジェクターをつけてド迫力で映画を見ようと思ってたんだ」
「いいですね、大サイズの映画。あと、ミラーボールってのはどうですか。プラネタリウムの映写機を付けるのも悪くないですよね」
「そうだな。でもここは機械をつけなくても夜になれば空は満天の星空だ」
「リアルプラネタリウム、いいですね、それ」
「そこんとこだけは都会より優れている」岩瀬は空虚に笑った。
3
暫くテレビを見ながらジュースや菓子を飲み食いしていたら山本は尿意をもよおしてきた。
まさか、外の壁に向かってしてこいとは言わないよな、と思いながらもおそるおそる岩瀬に尋ねた。
「トイレ使っていいですか」
「ああ、もちろん。台所横のドアだ」
台所横にドアがあった。開けると中は一体型のユニットバスだった。ここもまた新しい感じがした。
山本は用を足しながら何気なく周りをみやった。バスとトイレの間の手洗い場にハブラシがコップに一本立っていた。
一本か、と山本は思った。株で大損した筈なのに引っ越したと聞いたので、もしかしたら同棲もしくは結婚かと思ったのだがコップに一本だけのハブラシを見て、付き合っている相手はいない、と察した。
ふと立っているハブラシの柄を見ると噛み跡がついていた。用足しが終わったので、好奇心で近づいてハブラシをじっくり見ると柄はあちこち噛まれて傷だらけでえぐれていた。
凄いな、と山本は驚いた。歯磨きする時にハブラシを噛む癖があるのだ。他人のハブラシをまじまじと眺めた事はないが、こういうタイプはなかなかいないだろうなと思った。子供の頃からの癖なのかなと考えた。
山本が部屋に戻ると岩瀬はテレビを見ていた。
「ここは静かでいいんだけどさ」山本に顔を向けることなく岩瀬は言った。「刺激がなさすぎなんだ。静かで星がよく見える以外のメリットがなさすぎるんだ」
「でも駅に近いから出かけるには便利でしょう」
「まあそうだけど特に出かける用事もないからな。たまには体を動かした方がいいだろうからプールに通おうかと思ってるんだ」
「いいですね、プール。健康そうだ」
「室内の温水プールなら年中行けるからな」
「泳ぎ、得意でしたっけ」
「ここに来るまではプールなんか夏でも行きたいと思わなかったけど、ここに引っ越して来たら無性に泳ぎたいと思うんだ。俺結構泳げる気がするんだ」
そう言うと岩瀬は両手を折り曲げて前に出し、手を上下させて泳ぐ真似をした。何だか変な動きだな、と山本は思った。
二人が話をしていると外からサイレンの音が聞こえた。救急車が走って行くところだった。
サイレンの音が近づいて遠のいていく。その音に合わせるように岩瀬がサイレンの真似をした。山本は唐突に岩瀬が真似をしだしたので驚いてしまった。しかも岩瀬の声が大きかった。
「ピーポーピーポーピーポーピーポー」
そんなに大声を出さなくても、と山本は慌てた。隣近所から苦情がこないか心配する程だった。サイレンが遠のくと岩瀬の物まねも止んだ。
「柳沢慎吾の物まねでもマスターするつもりですか」山本が冗談で言ったが、岩瀬は何でもなかったかのように手にしていたジュースをぴちゃぴちゃと音を立てて飲んだ。
暫くすると玄関のドアがノックされた。
山本は、隣近所からさっきの騒音で文句を言いに来たのかも、と思った。岩瀬が出ないと二度目のノックがされた。
「岩瀬さん、どうしますか」と岩瀬の座っていたところに目をやると、姿がない。
玄関に行った気配もない。山本は岩瀬の姿を探して室内を見回した。そして驚いた。窓の脇に束ねてあったカーテンの陰に隠れるように岩瀬が身を潜めていた。
えっ、何を……、と言おうとしたが山本ははっとして言葉を飲み込んだ。そうなのか、と思った。株でとんでもなく大損をしたのだ。ヤバイ筋から借金をしていてもおかしくはない。取り立てだ。アバイ連中からの取り立てに警戒中なのだ。
山本は慌ててテレビを消した。そして息を潜めた。
玄関にやってきた来訪者は黙って去って行った。
山本も日が暮れる前に退散した。
4
午前中、山本は会社でパソコンを睨み続け午後になりようやく一息つこうとした時、八田里沙が現れた。岩瀬と同期入社の里沙は山本とも仲がよく、岩瀬が会社に在籍していた時にはよく三人で飲みに行った間柄だった。
「どうだった岩瀬さん、元気にしてた?」里沙は山本から岩瀬の家を訪ねる事を聞いていた。
里沙の問いに山本は難しい表情で答えた。
「元気ではありましたよ」
「どういう意味?」
「七千万の資金を苦労して作って億り人にリーチをかけてたのに、すっからかんになったんですよ。元気でいられるわけがないでしょう」
「一からやり直すしかないじゃない。あの人、まだ三十ちょっと過ぎなんだから仕事を見つけて働けばいいのよ」
「ああ、同い年でしたね」
山本が言うと、里沙は山本を睨みつけた。山本は視線に気づき肩をすくめた。三十ちょっと過ぎの里沙は会社の男連中から、彼女は結婚しないつもりかな、と陰で囁かれている。
「岩瀬さん会社辞めてからずっと投資一本でやってきたから、今更会社に入って働く気なんて起きないんじゃないかなあ」山本は言った。「それに現実、かなりまいってるみたいですよ」
「そんなに?」
山本は里沙に、岩瀬の家に行った時の岩瀬のおかしな行動を話した。
「確かにおかしな感じね」里沙も神妙な顔つきになった。
「実は気になってその後、もう一度岩瀬さんには内緒でアパートを訪ねたんです。しばらく外から部屋の様子を伺っていたら、岩瀬さんが出てきたんですよ。何をするのかと思ったら、アパートの外の道路を一心不乱に走り回っていたんです。ジョギングとかじゃなくて、ただあちこちを目的もなく走っている感じ。そして急に走るのを止めて部屋に戻って行ったんです」
「それはまた妙な感じね」
「途中で道を大型ダンプが通ったんですよ。そしたら岩瀬さん、そのダンプに大声で罵声を浴びせてるんですよ」
「何を言ってたの?」
「いや、もう何を言ってたんだか分からない。日本語なのかも分からない。言葉というかうなり声というか……。怖くて近づけない感じでしたよ」
「相当酷い感じね。病院に行った方がいいのかもしれないわね」
「岩瀬さん、自分からは病院行かないでしょう。前に病院は大嫌いって言ってましたから」
「じゃあ連れて行くのはどう」
「無理でしょう。頭おかしくないか見てもらえって言うんですか。多分、本人からしたらまともなんですよ」
里沙は考え込んでしまった。そう簡単に解決できる事ではないと思ったのだ。
「こんな時、岩崎さんに彼女がいたらなあ。色々やってもらえるのになあ。でもあの人偏屈なところがある人だから、付き合う女も相当に偏屈じゃないと務まらないかもしれませんね。そう思いませんか」
山本が冗談交じりに言うと、里沙はきっとした表情になった。。
「ちょっと! 散々お世話になった人が大変な事になってるんだから、もう少し真剣に解決策を考えたらどうなの」
里沙のきつめの言葉に山本はおたおたして答えた。
「解決策って……。何ともならないですよ」
山本はなぜ里沙がいきなり怒り出したのか分からなかった。山本は知らなかったのだが、岩瀬と里沙はかつて親密な間柄だったのだ。二人が分かれた理由は、何となく二人の間に隙間風が吹き抜けるようになったのだ。当時の岩瀬は株で一財産築き上げると言動が高飛車になった。
「最低賃金で小銭を稼いでいるやつらを見ると笑っちゃう」とか、「俺はそこいらのやつが人生の大半をかけて稼ぐ金を数年で稼いだ」など、聞いていて気分の悪くなる言動を繰り返した。金遣いが荒くなり里沙への連絡もおろそかになり、里沙の方からも会うのを遠慮しだした。そして二人はいつの間にか別れていた。ただ別れはしたが、友人関係は続いており、二年に一度ぐらいは山本を入れた三人で会ったりもしていたのだ。
かつて付き合っていた恋人であり、今でも友人であるかつての同僚を里沙は心配した。そこまで具合が悪いのであれば自分も見に行った方がいいだろうと考えた。自分から声をかければ、あるいは岩瀬も病院に行くかもしれない。
5
週末、里沙は岩瀬のアパートに向かった。
山本に教えられた通りに住宅街を抜けていくとアパートが見えて来た。アパートの前には駐車場があった。
部屋は一階角部屋だと聞いた。アパートに注意を向けていた里沙は、駐車場に人が寝転がっている事に気付かなかった。気付いた時には寝転がっている人まで三メートルという距離だった。
寝転がっていたのは男だった。その男は仰向けに駐車場に寝転がり、地面に体をこすりつけていた。さらに腹を上にして何やらくねくねと体を動かしている。背中が痒いのに手が届かないので地面に擦りつけているような動きだった。その男は岩瀬だった。
「何をしてるの!」里沙は叫んだ。
岩瀬の様子がおかしいとは聞いていたものの、目のあたりにする現実の姿に里沙は驚きを隠せなかった。
岩瀬は里沙に目をやり動きを止めると、ゆっくりと起き上がった。
「やあ」普通の挨拶だった。
「何をしていたの」
驚きを隠せない里沙に岩瀬は何気ない風に答えた。
「天気がいいので寝転がってた」
下はアスファルトなのに、と里沙は思った。
「遊びに来たのか」岩瀬は尋ねた。
「山本君が部屋に行ったって話すから、私も久しぶりに会ってみようかと思って」
「大歓迎だ。狭い部屋だけどどうぞ」
岩瀬は先に立ってアパートの部屋に里沙を招き入れた。
部屋に入ると岩瀬は玄関横のドアを開けてユニットバスの中をあちこち見回した。次に台所の四方を眺め回した。部屋に進むと四畳半と六畳の部屋をそれぞれ二周ほど歩き回り、カーテンの陰を調べ、窓から庭を眺めた。その様子は、まるでパトロールのようだった。
「まあ、座ってくれ」岩瀬が言った。
里沙は六畳半の部屋で、真ん中に置いてあるテーブルに向かって座ろうとした。
腰を屈めた時、里沙のスカートのポケットから鈴付きの家の鍵が絨毯の上に零れ落ちた。
転がった鈴付きの鍵に岩瀬が素早く飛びついた。屈みこんだ岩瀬は、鈴付きの鍵を拾い上げるでもなく暫く両手で左から右、右から左と転がして弄んでいた。転がす度に鈴がチリンチリンと鳴った。その様子を見て里沙は背中に寒気が走った。
それから一時間ほど二人はそれほど盛り上がらない会話をした。里沙から見た岩瀬は奇異な行動はあったが、付き合っていた頃と変わりのない様子に見えた。元気のない風でもあったが、それは事情が事情で意気消沈しているからであったし、大騒ぎする程おかしな様子には見えなかった。
里沙は二人の破局について思い出していた。そもそも二人がきまずくなりだしたのは、岩瀬が株で大成功してからだった。普通に働いていたのでは手に出来ない金を儲けて岩瀬は調子に乗ってしまい、半同棲を送っていた里沙をかまうことなく夜な夜な遊び惚けていた。そこで里沙は愛想を尽かした。むしろ今こうして失敗して昔の岩瀬自身を取り戻す事ができれば、それはかえってよかったのではないかと思えた。
会話が途切れがちになってきた頃、岩瀬はトイレに行くと言って席を立ち三十分ばかり戻って来なかった。岩瀬がいない間に里沙は部屋の中を落ち着いて見回した。
六畳の部屋には大きな荷物はなかった。タンスの一つもなかった。ただパソコンを置いた机が四畳半の部屋よりにあるだけだった。殺風景な部屋だった。岩瀬が几帳面だった事を里沙は思い出した。
里沙は立ち上がると四畳半の部屋に移動した。この部屋には荷物は一切置いていない。床の畳を見るとあちこち痛んでいた。表面がかなりこすられていてイグサがボサボサになっていた。見ると部屋の四隅にある柱もあちこち傷だらけになっていた。
岩瀬が戻ってきそうなので里沙は素早く六畳の部屋に戻り、何気ない風で絨毯に座った。
戻って来た岩瀬に里沙は言った。
「随分長いトイレだったわね」
「掃除をしてたんだ。トイレ掃除すると良い事あるんじゃなかったか。それに汚れているトイレって俺、嫌なんだ」
一緒に住んでいた頃は、どんなに汚れていようがトイレの掃除などする気配すら見せなかった岩瀬がこんなに時間をかけて掃除をするようになるなんて、と里沙は思った。大きなショックは人に劇的な変化を起こすのかもしれない。いい方向に向かっているのでは、と里沙は安心しようとした。
里沙は岩瀬を見つめた。岩瀬はどことなく疲れている表情だった。瞼が重そうだった。
「ちゃんと寝てるの」
「寝てるさ。ただ朝は弱くてね。いつもは大体夕方まで寝てそこから起き上がるのさ。今日は天気がいいので昼間から外に出てたけどな。でも寝てるとは言っても熟睡はしてないかもしれないな。外を走る車のエンジン音とか、朝方になると新聞配達のバイクの音がうるさいし、人の話し声とかが気になってすぐに目が覚める」
「夜眠るようにしないと、昼夜逆転は体に悪いらしいわよ」
「そうだな。身体に悪いのかもな。最近じゃ、ずいぶん歳を取ったような気がする」
「やだ。同い年でしょう」
時間が経ったので里沙はそろそろ帰ろうと思った。思ったほど岩瀬がおかしな様子ではなかった事が分かっただけで十分だった。それに夜まで岩瀬に付き合うつもりはなかった。
「そろそろ帰るわ」立ち上がりながら里沙は言った。
「もう少しいいじゃないか」
岩瀬は言ったが、里沙はぐずぐずしたくはなかった。岩瀬の事は気になったが昔のような関係に戻ろうとは思っていなかった。
玄関に向かおうとする里沙に岩瀬は声をかけた。
「待ってくれ」
里沙は面倒になると嫌だなと思った。引き留められてあれこれ言い合いをするつもりはなかった。実際に家に帰るのが遅くなりつつあったのだ。
一歩歩きかけた里沙は、岩瀬が手を伸ばして制してくるのかと思い身構えていたのだが、岩瀬は里沙の身体を掴んだりはしなかった。その代わり、くるぶしに噛みついてきた。
考えてもいなかった岩瀬の行動に里沙は声をあげて驚いた。岩瀬のそれは決して力強く噛むというのものではなかったが、行動が常軌を逸していた。
里沙は足を上げて岩瀬を振り切り、逃げるように玄関から外に出た。
玄関から外に出ると岩瀬が後を追って外に出てきた。一、二メートルほど先にいた里沙を岩瀬は追いかけようとしていたのだが、急に里沙から視線を道路に向けると一目散に走りだした。裸足だった。
里沙が岩瀬の走っていく方向を見ると、黒猫が家の隙間から飛び出してきて道路を横切り反対側の家の敷地に入って行くのが見えた。黒猫が入って行った家めがけて岩瀬は一目散に走って行くのだ。
「どうしちゃったの?」里沙は呟いた。
その時、岩瀬の隣の部屋のドアが開いた。中から住人が現れた。背が高く細長い顔をした目の細い男だった。
「やってるな」
男は走っている岩瀬の姿を目で追って楽しそうに言った。
すぐに男は里沙に気付いた。
里沙は近づいて男に挨拶すると男も軽く頭を下げた。
男は高山と名乗った。このアパートに住んでもうかれこれ十年近くになるという。
「ちょっとおかしな事になってしまったみたいなんです。ご迷惑をおかけしてすいません」
里沙は身内でもないのだが、かつての恋人の行動を詫びた。すると高山は手を横に振って里沙の言葉を否定した。
「迷惑なんてとんでもない」
「でも確かに具合が悪いみたいなんです。いろいろ気に病む事がありまして。病院に連れて行こうかとは考えているんですけど」
「病院に行っても直らないと思うけど」
「えっ?」
高山の言葉を不思議がる里沙に対し、更に高山は言った。
「今に始まった事じゃないから」
「どういう事ですか」
高山は隣の岩瀬の部屋を指差した。
「隣の部屋に引っ越してきた人があんな感じになるのは、今回が初めてじゃないって事ですよ」
里沙が驚いていると、高山は薄笑いを浮かべながら続けた。
「前の住人も、その前の住人も、だいたいあんな感じだったね。俺が越してきてから何人目かなあ」
「どうして皆さんが……」
「おそらくだけど……」高山は言葉を切り、時間をかけてもったいぶるように言った。「呪いだよ」
「呪い?」
「そう呪い。この世で非業の死を遂げた死者達の呪い」
「死者達の呪いって……。でも不動産屋さんは、この部屋の家賃は安いけど事故物件ではないと言ってた筈なんです」
「確かに事故物件じゃないだろうね。事故物件っていうのは前の居住者が死亡した部屋とかを言うんだけど、でも死亡原因によっては事故物件と呼ばないものもあるし、基準は全然明確じゃないんだよね。で、隣の部屋はと言うと、確かに人は死んでいない。だから事故物件じゃない」
高山は里沙と視線を合わせた。
「じゃあ、どうして」
「人は死んでいない。ところが死んでいるんだよ」
「えっ、何が」
「動物だ。動物が山のように死んでいるんだよ。俺が引っ越して来る前の事件なんだけど、その部屋で犬や猫が大量に殺されて風呂桶に死骸がどっさりと山積みになっていたんだってさ。部屋中血だらけで異臭が漂い、まさしく惨劇の部屋だったって聞いたよ。その時住んでいた住人がやったんだけど、、その人こそ本当に精神を病んでいたって話だよ。犬や猫、ウサギとかが大量に殺されていたらしくてね」
高山は電柱に小便をひっかけている岩瀬を顎で指し、
「ほらっ、あれなんか犬の習性ですよ。隣の部屋に越してきた人は動物霊に取りつかれて動物じみた事をするんですよ」
里沙は背筋が寒くなった。大量に死んでいたという動物の死骸のイメージが頭を掠めて思わず身震いした。そして動物じみた行動を繰り返す岩瀬を見て呆然となった。
「ほらっ、あの動きはウサギ、それから今度はイノシシ、馬、あれは羊の動きだな、今度はキリンだ」
「キリン?」
高山は楽しそうだった。
里沙は高山を凝視した。高山と目が合うと尋ねた。
「あなたは、そんな事があった隣の部屋に住んで、次々と隣の住人がおかしくなる事に平気なんですか。恐くはないんですか」
里沙の問いに高山は大きく笑みを浮かべながら答えた。
「いやあ、だってこれ、見てるだけなら結構面白いですよ」
了
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