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目の前の母は、いま誰に向かって話をしているのだろう。毎朝「初めまして」から始まって、だれかの名前を呼ぶ。それで毎回役割が決まる。どうやら今朝は「お母さん」らしい。
たかしは、私が産まれた時の名前だ。男性として産まれた私が、だんだん女になっていくのは、さぞかし奇妙だったことだろう。
疎遠になったのは15年前。
だんだん物忘れをするようになって、昨日置いた茶碗の場所が分からなくなって、人の顔が分からなくなった。
そして今、一緒に住んでいる。
目の前にいる息子が誰なのかも分からない母と一緒に、住んでいる。
「ねえ、お母さん見て」
テーブルの上に一輪挿しの花瓶があった。
そこに毎回同じ花が挿されている。
スイートピーという花が。
「たかしがね、また花を買ってきてくれたのよ。ふふふ、綺麗でしょう?わたしが綺麗ねって言ったら、あの子ったら毎年買ってきてくれるのよ。本当はね、スイートピーも大好きなんだけど、誕生日…ううん、誕生月か。あの子がね、1月生まれだから、そう。それで特別なの。1月の誕生月の花なのよ、スイートピーって。ねぇ、知ってる?お母さん。スイートピーの花言葉」
うっとりと、テーブルに頬杖をついた母は、嬉しそうに呟いた。私が答えるのを待って、満足そうに頷くと、満面の笑顔で、言った。
「やさしい思い出」
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