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5 化ける
夕刻まで休むようにと言って河西を寝かせると、慈海は風呂を焚く準備をした。
辺りが暗くなり始めると、河西を起こして入浴させた。
その間に本堂を締め切り、灯明をそなえた。そして、静かに墨をすり始めた。
湯から上がった河西の火照りが静まった頃合をみて、慈海は言った。
「恩返しをするには、相手の領分へ入り込まねばなりません。昔話にもあるように、相手と同じ姿になった方が受け入れられやすいでしょう。
これから、あなたの背中に|特殊な文言を唱えながら『化』という文字を書き入れます。その文字が、あなたを獣の姿へと変化させます。効果が続くのは五日間です。その間に恩返しをすませ、必ずこの寺へ戻ってきてください」
「そのような不思議なことが、住職はおできになるのですか?」
「はい。過去に一度だけですが、頼まれてやってみたことがあります。そのときは、思惑どおり上手くいきました、いちおう」
しばらくの間、河西はうつむいて何やら思い巡らしていた。
こんな妙な提案を信じて、即座に受け入れるのは難しいことだろうなあと、慈海自身も思う。法力をつかって、人間を獣に化けさせるというのである。まともな人間なら正気に返って、さっさと寺を出て行くだろう。
ところが河西は、真剣な顔でさらに突っ込んだ質問をしてきた。
「もし戻れなかったら、わたしはどうなるのでしょうか?」
「わかりません。獣に食われるのか、異界へ取り込まれるのか、はたまた獣の姿のまま、この地を彷徨い続けるのか――。以前、力を施してさしあげた方は、五日以内にわたしのところへ戻ってこられましたので、戻れなかった場合のことはわからないのです」
戻ってきたら、寺の裏山の洞にしみ出す霊水で、書き入れた文字を洗い落とす。霊水の効力か僧侶が身につけた法力ゆえかわからないが、文字は跡形も無く消え去る。それで終わりだ。その後、万が一、変化して会いにいった相手と行き会っても気づかれることはない。先代は、そんな風に言っていたっけ――。
「そうですか――、わかりました。それでは、よろしくお願いいたします」
河西は小さくうなずきながらそう言うと、慈海に背を向け上半身裸になった。
こうなれば、慈海としては力を尽くして河西の望みを叶えるまでである。用意しておいた筆を手に取ると、それにすりあがった墨液を含ませ河西の背中に「化」の字をしたためた。
筆を置くと、仕上げに文字の上を右手でさっと撫でた。
「さあ、終わりました。寺の敷地を出た途端、あなたは変化することでありましょう。荷物はこちらでお預かりします。衣服も邪魔ならば、門前にでも置いていってください。さあ、誰にも見られぬように気をつけて、恩返しをしてらっしゃい!」
振り向いた河西は、慈海に軽く頭を下げた。
妙に澄んだ瞳が、早くも獸染みた鋭い輝きを帯びていた。
出て行く河西を見送ることなく、慈海は本尊に向き直り静かに読経を始めた。
◇
約束の五日を過ぎたが、結局、河西は戻ってこなかった。
慈海は、念のため、河西が置いていったリュックの中身を調べたが、スマホはなかった。
ああ見えて、河西は、それなりの覚悟を決めてここへ来たのかもしれない。
慈海は経を上げ、河西の望みが叶うよう祈ることぐらいしかできなかった。
薄暗くなった門前から、河西が呼びかける声を慈海が聞いたのは、彼が寺を出て行ってから十日目のことだった――。
灯りも持たず、大慌てで出て行った慈海の前で、妙に元気そうに河西が笑っていた。
河西は慈海の勧めを断り、寺には入らずに、その場で寺を出てからのことを語り始めた。
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