3 河西紀彦の話①

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3 河西紀彦の話①

 ◇  ひと月ほど前のことです。  友人と約束していた小旅行が中止になり、せっかくとった休暇をどう使おうかと悩んでいたところ、たまたま見ていたテレビ番組で紹介していたD峠からの眺めに、わたしは、たいそう心を惹かれました。  慌ただしく準備をし、次の日の朝早くD峠を目指して列車に乗り込みました。  天候にも恵まれ、テレビで見た以上に素晴らしいD峠からの眺めを堪能できました。  平日だったせいか、登ってくる人も少なく、静かな山の霊気を存分に味わえました。  ちょっと休憩するつもりで近くの木陰に座り込み、谷から吹き上げてくる涼風の中でうとうとしているうちに、わたしはすっかり寝入ってしまいました。  目を覚ましたときには、あたりは薄闇に包まれようとしていました。  あわてて立ち上がり峠道へ戻ろうとしたところ、木の根に足を取られ、わたしはあっという間に谷底へと転がり落ちてしまいました。  頭を打たなかったのは不幸中の幸いでした。しかし、大きな石にしたたか背中を打ち付け、すぐには動くこともできませんでした。痛みに耐えてじっとしていると、空には星が瞬き始め、わずかな残照はじきに闇に溶け込んでしまいました。  なんとかポケットからスマホを取り出し、光を得ることはできましたが、案の定そこは「圏外」でした。あたりの様子もわからないので、朝を待って動くことに決め、そのまま寝そべり美しい星空を見上げていました。自然に瞼が重くなり、わたしはいつの間にか眠りに落ちてしまいました。  何かの息づかいを感じて目を覚ましたのは、たぶん真夜中を少し過ぎた頃だったと思います。少し離れたところに、(けもの)がたたずむ気配がありました。  うなり声などは発せず、こんな場所に紛れ込んだ人間を興味深く見つめているという感じでした。とても疲れていて動ける状態ではなかったので、もしも、獣に襲われたとしてもそういう運命だったのだとあきらめることにし、わたしは再び目を閉じました。  翌朝、わたしは、あたりに漂う甘酸っぱい香りで目を覚ましました。ようやく白み始めた空が、頭の上に広がっていました。無事に朝を迎えることができたという安堵感とともに、ひどい空腹を覚えたわたしは、甘酸っぱい香りの出所を探しました。  頭のすぐ横に一枚の大きな葉が敷かれていて、その上に紅色の小さな果実がこんもり盛られていました。  強ばる指を伸ばし果実を摘まむと、わたしは、夢中でそれを口に運びました。なぜそこに果実があるのかとか、体に悪い物ではないのかとか、そんなことは一切考えずに、口の中に広がる甘味や酸味、そして苦味や渋味までも飲み下しました。  ただただ、乾きや飢えをしのごうと必死でした。  結局その日も、わずかに寝返りを打つぐらいのことしかできないまま、わたしは体を休めながら夕暮れを迎えました。夜になると前夜と同じ獣が、再びわたしのもとを訪れました。  昨日より、少し近いところからわたしを見ているようでした。  わたしはもう、暗闇にも獣にも怯えてはいませんでした。獣の視線に温情のようなものを感じ、その晩はゆったりと心穏やかに眠りました。  朝、目覚めると、前日の倍ぐらいの量の果実が届けられていました。   (あの獣が、これを運んできてくれているに違いない――)  わたしは確信しました。  なぜかはわかりませんが、あの獣は傷ついたわたしを助けてくれたのです。  そのことが、わたしに力を与えてくれました。わたしは、涙をこぼしながら果実を頬張り、痛みをこらえて体を起こしました。リュックに入っていた水筒や携帯食を取り出し、どんどん腹に収めていきました。  それでもまだ、歩き出すだけの気力はなく、リュックに入れておいたガイドマップを見ながら、自分が今どこにいるのかを考えたり、どんな怪我をしているのか自分の体を調べたりして一日を過ごしました。  その晩、空腹から夜中に目を覚ましたわたしは、腰のあたりにほのかな温もりを感じました。手を伸ばそうとしてやめました。息づかいから、あの獣だとわかったからです。  とうとう獣は、わたしに寄り添いわたしを温め、わたしの体を自ら癒やそうとしてくれるようになったのでした。  わたしは、獣とは思えぬ深い情けに感謝しながら、ゆっくりと朝まで眠りました。  翌朝、葉の上にどっさり盛られた果実をありがたくいただき、わたしはそこに立ち上がってみました。すぐにふらつき、しゃがみ込んでしまいました。  しかし、体の痛みはだいぶ薄れていて、少しずつなら歩けそうな気がしました。  近くにあった枯れ枝を杖がわりして再び立ち上がると、わたしはゆっくり歩き出しました。太陽の位置を確認しながら、できるだけなだらかな場所を選び、時間をかけて麓を目指すことにしました。  そして、その日の夕刻、わたしはようやく人と行き会える場所までたどり着きました。出会った老人に事情を伝えて車を呼んでもらい、近くの病院へ行くことができたのです。  ◇
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