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6.一粒のなみだ
逃げ出したぼくはトイレに駆け込んだ。
水で口をゆすぎ、赤く染まった唾を吐く。
舌に残る辛さが、生きていることを感じさせた。
これは、店や友達を傷つけられた真実からの復讐だった。
イケメンを誇るばかりのぼくに必要なのは、甘ったるいキャラメルタルトでもなく、渋みの効いた抹茶シフォンでもなく、こういう味だった。
小箱の上で一瞬触れた温もりは、少数派にならざるを得なかった、いや、少数派に浸っていたぼくをすくい上げた。
キスはもらえなかったけれど、それで十分だ。
ひりひりする唇にそっと手をやった。
「あれ、誠くん?」
ふいに声が聞こえて、はっとする。
バスチアンが、廊下からトイレに入ってきたところだった。
「偶然だね。誠くんも委員会か何か?」
ペンケースを小脇に抱えたバスチアンはぼくの隣まで来て、同じ鏡に収まった。
なんという勇気だ。
みんなはぼくの横に並ぶことを、嫌がる。
そしてみんなは、こう言うんだ。
「誠くん、今日もかっこいいね」
「羨ましいな」
「俺たちとは違うよね」と。
だけど、バスチアンは言わなかった。
「誠くんは、えらいね」
意図がわからずぽかんとしていると、バスチアンはもう一度言った。
「忙しいのに、ちゃんと学校に来てる。それだけで、えらいよ」
その言葉は、バスチアンの命を散りばめたように輝いていた。
何も言えなかった。
今まで生きてきた17年間で知り得た感情全てをもってしても、この気持ちをうまく表すことができない。
ぼくは顔の皮膚が薄いから、こういうときは目が潤むより先に鼻が赤くなる。
犬というより、もはや道化のピエロだった。
バスチアンが、どうしたのと目を丸くした。
その優しさがぼくを苦しめた。
ぼくはイケメンだ。
情けなど不要だ。
ぼくはどこまでも25%の人間だった。
今さら、みんなと同じになることはできない。
「きみ、名前は」
「本田だよ。何だよ、同じクラスじゃんか」
少女漫画なら西園寺とか轟とかかっこいい名前の奴が出てくるのに。
ぼくはバスチアンの本名の平凡さに拍子抜けし、また、安堵した。
そのとき、オレンジ色の夕日がトイレを覗きこんできた。
ぼくらは目を細め、同時に大きなくしゃみをした。
ぼくの目から、一粒のなみだがこぼれた。
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