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最後に向かう場所
麻耶には、いつも行く海がある。
誰もいない夜の海。
少し先に崖がある。
麻耶は、いつか、いつか、心がしんどくなりすぎたら、その崖から車で飛び込もうと心に決めていた。
そう思うことで、心を保つことが出来ていた。
『お母さんは、きっと私が死んだら、ショックで正気になるはず…』
確証のない自信が麻耶にはあった。
もしかしたら、麻耶の心はすでに壊れかけていたのかもしれない。
毎日、毎日、いつどんな電話が来て、母が周りを困らせるのか、不安な日々が続いた。
家の電話が鳴った。
「お客さんが、おたくのお母さんだって言ってる人がお店に居るんだけど、他のお客さんが気味悪がってるから連れ帰ってくれる?」
うちから10分ほどの場所にある、喫茶店の店長さんからの電話だった。
電話を切って、慌てて車に乗り込んだ。
お店に着くと、一人でブツブツ話している母親の周りを避けて、少し離れた席から様子を見るお客さんが何組か居た。
お店の人が、困った顔で麻耶に近付いた。
「あのお客さんの家族だよね?悪いけど、うちには来ないように話しておいてくれる?」
そう言われた麻耶は、
「ご迷惑かけて申し訳ありません」
と、言いながら頭を下げた。
母親のいる席に向かう。
近づいても、母はブツブツと独り言を話すだけで、麻耶には気付かない。
「お母さん、お母さん!」
何度も呼びかけて、やっと、
「あら、麻耶どうしたの?」
と、呑気な声で答えが返ってきた。
「…帰ろう」
そう言って腕を引っ張ると、母親は、すんなり立ち上がり歩き出した。
母と手を繋いだのは、小学生の時以来だ。
そんな事が頭の中に過った。
母を連れて車に戻ると、疲れがどっと押し寄せた。
麻耶がハンドルに頭をつけて目を閉じると、また母の独り言が始まった。
「もう!なんでよ!」
麻耶が、声を張り上げて助手席の母を睨むと、母は何事もなかったかのように窓の外をぼーっと見て、また独り言を言い出した。
どうすればいいのかわからないまま、麻耶は母と二人で家に帰った。
久しぶりに二人だけの時間。
麻耶には苦痛でしか無かった。
リビングで母親とちゃんと話そうと、向き合ってラグの上で正座をする。
すると、母がおもむろに麻耶の首を両手で掴んだ。
「こうしたら、人は死ぬんだって」
そう言いながら、両手に力を込め出した。
少し苦しくなった麻耶は、何か言わなきゃと思いながらも、
『もしかしたら、このまま私が死ねば、お母さん、正気になるかも…』
そんな気持ちにもなった。
生きる事を諦めた麻耶は、母の行動に身を委ねた。
最初だけ苦しかった首は、全然強く締められなかった。
母親として、人として、ダメな行為だと本能で分かっているからなのか、母親自身は強く締めているつもりでも、実際は強く締めることは出来なかった。
母が手を離して、自分の両手を見つめた。
麻耶が死なないことが、不思議そうな母。
「おかしいなぁ…」
そう呟く母に、麻耶は泣きながら、
「人はそんなに簡単に死なないんだよ」
そう言うと、母は納得のいかない顔をした後、また独り言を言い出した。
麻耶はその隣で、ただ泣くことしか出来なかった。
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