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辻村とは大学時代に一度だけキスをしたことがある。
恋人未満のときめきと淡い期待が最高潮の時、すれ違いが重なってとうとう結ばれることはなかった二人が、長い時を経て再び惹かれ合っていた。
「ん」
迎えに来た辻村の部屋へ、ダメだと思いつつ入ってしまった。
扉を閉めた瞬間、唇を貪るように奪われ、体の力が抜けていく。
「駄目、こんなこと」
小さく呟く沙羅に辻村が囁く。
「まだ離婚してないから?」
「これからのことちゃんと決めてない」
自分たち夫婦のいざこざに辻村を巻き込みたくはない。もはや破綻しているとはいえ、まだ沙羅は誠の妻には変わりなかった。
「これ以上道を間違えたくはないの」
沙羅の言葉を、辻村が淡く笑う。
「その正しさは、沙羅を救ってくれるの?」
道徳的に正しい人間が報われるとは限らない。昔話では悪い人間にはばちが当たるけれど、現実はそうはいかない。
そんなことはわかっている。溜めこんだ不満と怒りと悲しみ、そして孤独。
手に入れた平穏な日々は、脆く儚く全て無に還ってなにも残ってはいない。
夫からも今日は早く帰るから話そうとメッセージが来ていた。だがもう全てが遅い。
割れた皿はもう元の形には戻らない。
「許せないものを許した振りをして、生きていくの?」
「もう言わないで」
向き合うべき現実の重さに、逃げ出したくなる。
泣き出した沙羅を辻村が抱く。
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