丑三つの話し合い

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/9ページ

丑三つの話し合い

 秋の風が店内をさらりと駆ける、夜八時。  既に客席はまばらで、重彦は明日に備えての仕込みを始めていた。  そんな折。彼の間近に座る一人の常連が、徳利をひっくり返したまま呟くように訊ねた。  「なぁシゲさん。あんたこの店どうするつもりなんだい?」  「何だ、この酔っ払いめ。さっさと畳めってか」  「そんなこと言ってないだろう? むしろ逆さ。いつまでも残っててほしいんだよ」  逆さまの徳利は酒を一滴も落とすことなく、ただ宙ぶらりんにされている。  「つづらや」にはかき入れ時というものはほとんどなく、昼も夜も混み合うことはない。  理由ならばいくらか挙げられるが——よく言えば、知る人ぞ知る隠れ家であった。  この日も、二組ばかりの客が座敷席でしんみりと晩酌を交わしている程度で、会話を遮るような音は他にない。  重彦は深くため息をつき、それから一拍を置いて口を開いた。  「この店は俺っきりで閉める。俺の死に場所もここだ。ずっと前から決めてある」  「ふぅん」  ふと、常連の彼は右手に意識が戻り、宙吊りにされていた徳利がようやく卓に落ち着く。  「そうだ。じゃあ僕が手伝おうか」  「は、余計な世話だ」  無論、重彦が「つづらや」の将来を考えていないはずがない。  しかし放った言葉に偽りはなく、本気で生涯現役を貫き通し、自らの代で店を畳むつもりでいた。  かつて彼が、今は亡き妻に誓った時から、たったの一度たりともこの決意を揺るがせたことはない。  「だァから言ってるだろ? アイツの頑固は美濃伝でも斬れやしねェよ」  丑三つ刻。  ぴしゃりと戸締りがなされ、薄っすらと差し込む月光が映える「つづらや」に、声なき声が囁き合う。  「ものは試しとも言うだろう? 今の君なら斬れるかもしれない」  厨房から。座敷から。玄関口から。天井から。彼らの姿が見えれば、夜更けの「つづらや」は満員御礼である。  「にゃあ。シゲちゃんだって人間なんだから、寄る年波には勝てないわよ。それに少し具合も悪そう」  愛知は瀬戸で生まれた招き猫も呟く。  名をスズという彼女は、創業当初から店の壁看板たちと共に過ごしてきた最古参組である。  「覚悟はしておくべきだろう。それがどういった形であってもな」  万物には魂が宿る。  多くの人間は「お伽話だ」と笑い飛ばすだろう。  だがそれは長い時を経て、人々がお伽話として口伝するようになっただけであり、あまねく“モノ”は確かに魂を持っている。  そして、その“モノ”がどう扱われてきたかに関わらず、作り出されて百年——つまり、まるまる九十九年の時を数えると、その魂は人の像を結ぶ。  やがて信心深い人々は、彼らのことをこう呼んだ。  「ツクモガミ」と。  「しかし良い店だな。いや……これは些か手前味噌かな?」
/9ページ

最初のコメントを投稿しよう!