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遭逢
深夜二時。
空気は幼子を撫でるように暖かった。深い時間であるが、人目を避けて徘徊するには程良いとも思える。
朧月夜が茫漠とした団地群を怪しく照らしている。
かつて栄えたコロニーは、当時の栄を剝ぎ取られ薄墨色の巨影を恥ずかし気に晒していた。
田天ニュータウン。
高度経済成長期の波に乗り、また深刻な都心の住宅事情を解決する手段として鳴り物入りで始まった巨大ニュータウン計画は、マスコミをはじめ各種宣伝媒体が大々的に持ち上げ、勢いのまま入居希望者は途切れることがなかった。
コロニー内には学校などの公共施設やスーパーも充実し、その隆盛は何世代にも及ぶと思われていた。
が、それから約五十年が経つと当初の思惑と現実は大きな溝ができていた。
一つは第一世代の入居者の高齢化。新しい生活と明るい未来、希望を胸に抱いていた入居者も気付けば現役を引退し、今や誰の手も借りず日本の足で歩ける者の方が少数である。
二つ目が立地。元々都心の住宅事情の解決のため強引に山野を切り崩したこの土地は、生活の便が良いとは言えなかった。
インフラも主要の鉄道が二本乗り入れてはいたのだが、いかんせん通勤のために都心へ通うには、あまりにも遠すぎたのである。結果、第一世代の子供たちは成人すると皆生まれ育った地を離れ、そして戻って来ることはなかった。
住人達と時を重ねるにつき建物も老朽化していくのだが、十分な修繕、維持のための費用を集めるには居住者の数が少なすぎた。
日が暮れると明りのつく窓はまばらで、殆どの窓は塗り塗りつぶしたように黒く闇夜と同化していた。希望の光に満ち溢れていた街は、今やゴーストタウンと化していたのだった。
ニギュッニギュッ。
人影がすり減ったガムソールの音を鳴らしながら、コンクリの階段を上がっていく。
シルエットからすると男性のようだが、酷く痩せた体格と疲れ切った足取りからは若いとも年配とも判断がつかない。
色褪せたグレーのパーカーが貧弱な体格のせいでオーバーサイズに見え、みすぼらしさに拍車をかけていた。
男は五階に辿り着くと所々ペンキが剥げた古い扉を見つめる。扉の向こうからは住人の気配が全く感じられない、ゆっくりとドアノブを回す。
部屋の中は薄ぼんやりとした月の光でかろうじて見渡すことができる程度だったが、男の目的には何の支障もないようだった。
土足のまま部屋の中に足を踏み入れる。家具をはじめとした生活用品は一切なく、廃墟と化していたが、四畳ほどの和室に目をやるとボロボロになった畳表は所々からイ草がはじけ出ていた。
その上に無造作に捨て置かれたアルコール飲料の空き缶が無数に転がっている。灰皿代わりに使われたのであろう吸い殻がねじ込まれた缶も四つ放置されていた。
男は知っていた。この部屋が近くの大学に通う学生達の溜まり場になっている事を。
不良と呼ぶほどでもない精神が未熟なまま大人になりかけた学生達は、どうやってか面白半分に空き部屋の鍵をこじ開け、自分たちの遊楽の場にしていた。
彼らは喫煙をしながら酒を飲み、一晩中、楽観的な将来設計を声高に語り、また自分以外の人間をこき下ろして夜を明かすという事を度々行っていたのだった。
男は六回の下見の最中に偶然それを知り、この部屋を計画実行の場に決めた。
生気のない足取りで和室を横切りガラス戸を開け、申し訳程度のベランダから霞みがかった月を見上げる。
埃の混じった粗い光の粒子に照らされた顔は、所作から想像するより若く見えた。
男は考える。何故こうなった?何処で間違えた?
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