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第1話
『おかけになった電話は電波の届かない……』
「なんだよ、スマホは繋がんないのかよ」
十九階のオフィスの窓の外は暗かった。
シンジはスマホを机の上に置くと、足元のカバンを引き上げて、財布を取り出した。
「そういえば、今日の店は地下とか言ってたな」
財布の中からメモを出して、机の上に開いた。
そこにある店の電話にかけて、幹事の吉村を呼んでもらった。吉村は、僕と同じ、今年入社の期待の新人。電話に出た吉村は、かなり出来上がっていた。
「課長が早く来いって、怒鳴ってますけど~w」
声がでかい。
(十六時過ぎに、今日中の仕事持ってきたのはアナタですが)って、シンジは言い返したかったけど、ぐっと堪えた。
課長は、いつも定時頃に、今日中の仕事をもってくる。
「……ごめん。今日は二次会のカラオケも行けそうにない」
うちの課の二次会は、課長の好きなカラオケに決まっていた。
そしていつも歌うのが、髭団。
「そっか。今日の会費バックは無いぞ。オマエの料理も出ちゃってるから」
「あ、ああ、いいよ」
つられてシンジの声も少し大きくなる。
吉村の声の後ろで、店内の盛り上がりが聞こえる。
「相馬っ」
電話を切ったとき、後で自分を呼ぶ声が聞こえた。
このフロアで、自分と一緒に、いつも最終退出者の常連組の、隣の一課の田代課長だった。
スマホと財布を手早く机の引き出しに入れると、早歩きで、窓を背にしている田代課長の席へ向かった。
「あれ、お前ンとこ、今日はクリスマス会じゃなかったのか。加藤が言ってたけど」
加藤とは、あの定時に『今日中の仕事』をもってくる、うちの課長である。
「はぁ、そうなんですけどね」
「今日は俺もクリスマスだから、この辺であがるよ。悪いけど、また最終退出を頼む」
田代課長は、いつも最終退出時間の二十三時ギリまで、一緒に残業をしているので、
(今日はお早いですね)と言いそうになったけど、やめた。
「ハイ、分かりました。やっておきます」
「お前も早めにあがれよ」と言った後に、
「ムリだよなw」と、田代課長は笑った。
田代課長がコートを羽織り、後ろ向きのまま、右手を挙げてバイバイをしながら、フロアを出て行った。
シンジは、手渡された最終退出チェック表を開くと、項番①のコピー機の前に行って電源を切った。
出来ることを済ましておけば、撤収時に楽だから、 シンジはいつも先に終わらせておく。チェック表の室内全消灯と、最終退出処理だけを除いて、全て終えると席に戻った。
スクリーンセイバーになってしまった画面を戻した。―――デジタルは、21:37。
「また、最終者だよ」
シンジの言葉は、誰もいないフロアの壁に、意味が無いものとして、空しく吸収されていった。
『最終退出時間の十分前になりました。館内に残っている社員は速やかに退館願います』
シンジが作成資料の確認をしているときに、館内にアナウンスが唐突に流れた。
「うわぁ。まだ終わってないよ~」
シンジの情けない声が、誰もいないフロアに聞こえた。
課長から、ユーザへ出す資料は、必ず二回は確認するようにと、常々言われているが、まだ一回目も途中だった。
とりあえず、ここまでに発見したミスを直して、PCの時間をみると、―――22:57。
「うわ、やばっ!」
最終退出時間を守れなかった社員の課は、翌日課長が事業部長へ始末書を直接出すことになっている。
「殺される」
シンジは慌てて作成資料をメールに添付して課長へ送信すると、PC電源をOFFにして、急いで足元のカバンを手に立ち上がった。
椅子の背もたれに掛けてある、ダウンパーカーを肩につっかけて、最終退社チェック表を出口の壁にかけて、全消灯し、最終退出者承認として、首にかけている社員証のICチップを読ませ、エレベーターホールへ駆け出した。
一 階に降りると、いつものように、各階の最終退出者たちが、出口ゲートへ小走りに向かっている。シンジもそんな中に入り、出口ゲートに社員証を翳して、外へ出た。
「二十二時五十九分。セーフ!」
シンジの淡い、ひと時の「ふ~」だった。
今日はクリスマスで、駅へ向かう集団はいつもより多かった。
赤いトンガリ帽子を被っていたり、大袈裟な鼻のついた眼鏡をしているものが路上に立ち止まっていたりと。
「今日はクリスマスだっていうのに……」
駅へ向かいながら、ここでシンジの言葉がフイに途切れた。
歩きながら、シンジは強い違和感に立ち止まった。
急に立ち止まって、後ろを歩いていた人がぶつかりそうになって、怪訝な顔で振り返りながら、通り過ぎて行った。
シンジには、そんな視線も目に入らなかった。
違和感は右手にある。右手に持っているカバンが、―――今日はやけに軽い。
シンジは慌てて、カバンの中を開いて手探りした。
シンジの顔から血の気が引いた。
「な、ない……」
カバンの所定の位置にあるはずのスマホと財布が。そして、財布に入れてある定期券も勿論無い。
「うわー」
シンジの小さな悲鳴が、肌寒いクリスマスの夜空に消えた。
『落ち着け、シンジ。まだ、終電までは時間がある」
なんとか落ち着くように、声に出して言った。
―――スマホがない。財布がない。机の中だ。
財布に入れていたお金とクレジットカード、定期券、それに身分証明になる免許証なども勿論無かった。
『どうする?どうする?……どうするシンジ!どうやって家へ帰る」
シンジは、ゆっくりと駅に向かいながら、頭をフル回転した。
『会社に取りに戻る?』―――いや、無理だ。
二十三時を過ぎると、全館が自動施錠されてしまい、警備会社に連絡して人を呼んで開けてもらうしかないが、深夜連絡は、所属長以上の権限のある人にしかできない。
『たまたま会社の近くで呑んでいて、遅くなってしまった顔見知りを、駅で待ち伏せしてお金を借りる』―――いや、無理だ。
知り合いは少ないし、うちの課はクリスマス会でこの近くで呑んでいるものなどはいないだろう。
『じゃあ、交番で事情話して』―――いや、無理だ。
警察はお金を貸してなんてくれないだろう。鉄格子の中に泊めてもらうのも気が進まない。
色々考えているうちに、駅に着いてしまった。
お金がない。知り合いに連絡ができない。
シンジは、自分の証明もできない。
夜更けの街に、何も持たずに放り出されると、こんなにも心細く、こんなにも情けないものかと。
大学を出て、今年上場企業に入社したシンジは、そんなことを考えたことも、感じたこともなかった。
オフィスにいたさっきまでの自分と、いまの自分は明らかに違った。
―――なにものでもない明らかに無力な自分。
……おれは誰?
(いや、今は、そんなことをしみじみと思い知らされて、打ちのめされている場合じゃ無いんだ) ―――シンジは我に返った。
顔を上げると、二台並んだ自動改札機の前だった。
急ぎ足の人たちが慌ただしく自分を追い越して、改札機の中へと流れていく。
ほぼ空っぽのカバンしかもたない自分には、これ以上、前へ進むことの権利がないことは分かっていた。が、それでも微かな希望に縋り付いて、ここからは離れたくない気持ちが大きかった。
……と、そのとき、視線を感じて横を見ると、駅員さんが相談用窓口の向こうから、不思議そうな顔でこちらを見ていた。
なぜか慌てて視線をそらしたその時に、背中に軽い衝撃を感じた。
「わっ、ごめんなさい」
と、その声に振り返ると、バックの中身があたりに散らばり、拾おうとして屈み込む女性がいた。
「いえ。ボクの方こそ、すみません」
シンジも慌てて足元の手帳を拾うために腰を屈めたときに、女性の見上げる顔と目があった。
「ぅわ!」
シンジは身を反らして、声を上げそうになった。―――心臓が止まる。
そこには、シンジが一方的に好意を寄せている、憧れの蒼井美玲の顔が、すぐ近くにあった。
蒼井は、シンジと同期入社で、社内のエリートコースである情報コンサル部だった。
同期といっても、毎年5百人前後が入社する会社だと、新人教育のワークショップなどで顔をみる程度で、直接話をしたこともない同期の方が大半だった。
シンジと蒼井も、その程度の同期だったが、 ワークショップのグループリーダーとして、発表したものが最優秀をもらった、容姿端麗の蒼井は会社からも一目を置かれていて、知らない同期は誰もいなかった。
ちなみに、そのときのシンジのグループは、うしろから二番目。
そんなシンジからみれば、蒼井は眩しすぎる高根の花で、自分から話しかけるなど、死んでも無理な存在であった。ちなみに、その時ビリだったのは、取りまとめが時間切れで、発表出来なかったグループ。
蒼井は、手帳をバックに押し込みながら、軽く会釈をすると、シンジの横を通り、改札機を抜けて上り方面の階段を小走りに消えた。
シンジは頭の中が真っ白になっていて、自分の足元に落ちていた手帳すら拾ってあげることもできなかった。
ただ、止まった時間の勝手な夢の中で、ボーっと突っ立っているのが精いっぱいだった。
少しして、我に返ったとき、シンジは人類史上、最大級の自己嫌悪の中にいた。
『あー、なンも言えなかった』
シンジは、大きな声を出して、泣き叫びたかった。
蒼井は、東京方面なので、乗る電車が上りの終電だった。
シンジは、小田原方面の下りだから、まだ、二本あった。
ホームから最終電車のブザーが聞こえて、電車が発車していくのが分かった。
シンジの中で、なにかが終わった。
『シンジ、お金のこと頼めばよかったのに』
『……いや、彼女も急いでいたから無理だろ』
シンジの心の中で、超合金で出来たシンジ一号とシンジ二号の言い合いが始まった。
シンジは相変わらず自動改札機の前で、未練がましく立っていた。自らがこの状況の打開策を見いだせなければ、何事も起こるはずは無かった。
そう、無かったはずだった。……が、終電が行ってしまった上りのホームの階段から、 一 人の女性が降りてくるのがみえた。
「えっ?!」
それは、見覚えがある女性。
「蒼井さん、なんで」シンジの心の中がざわついた。
その衝撃は、映画で言うと『全米がざわついた!』に近かった。
蒼井は、階段を降りるとまっすぐと、改札機の方へ歩いてくる。
シンジを見て、一瞬不思議そうな顔をした。
「どうしたんですか?」
シンジが、高鳴る鼓動を押さえて、精一杯に自然を装って話し掛けた。
「えっ?あっ、ここに指してあったペンが無くって。さっき落としたみたい」
蒼井は、バックから手帳を取り出して、シンジに見せた。
「あっ、ああ。あの、ボク、一緒に探します」
シンジはぎこちなく返すと、足元をキョロキョロ。
「あった!よかった」
二 台並んだ自動販売機の下で、見つけたのは蒼井だった。
「これは、入社祝いに父から貰ったもので」
蒼井はペンを拾い上げて、大事そうに手帳に戻すと、
「探してくれてありがとう」
と、なにも役に立っていない、不自然さだけが目一杯のシンジに頭を下げて、自動改札機を背にして歩き出した。
シンジは何も言えずに、つっ立っている。
「シンジ、なにか言え。そうだ、お金貸してだ。蒼井、金を貸せ!だ!シンジ、早くいえ」心の中でシンジ一号が暴れている。
「あの、……お疲れ様でした」
それがシンジの口から出た、やっとの言葉だった。
背を向けている蒼井の足が止まった。
振り返ると、蒼井はゆっくりとシンジの前まで歩いてきた。
「たしか、……相馬くんよね。システム二課の」
(えっ、蒼井さんがボクの名前を知っている)と、蒼井の視線の先にある、自分の胸に下げたままだった社員証を見て、シンジの一瞬の喜びが、寸分たがわぬ『ぬか』だったことを悟った。
「ええ、蒼井さんとは、同期だと思います」
シンジの心臓がまた高鳴りだした。
あこがれの蒼井の顔がすぐそこにある。そして、向かい合って話をしている。
―――これは夢か。
蒼井は自分の名前を出されて、少し驚いた顔をしたが、
「相馬くん。ひとつ聞いていい」
「はい。なんですか」
「なんで、立っているの?」
「えっ?」
「なんで、そこにずっと立っているの?」
「あっ、あー、その、これは」
(シンジ、いまだ!蒼井、黙って金を出せ!だ)シンジは首を振った。
(次に手を上げろだ!蒼井が手を上げたら、思わず抱き着いて、チューしろ、チューだ!いけぇー、シンジ!)
「うるさい!」「えっ?」
蒼井は首を傾げて、不思議そうな顔。
「あ、いえ、違うんです。これは 一 号が……」
シンジはしどろもどろになりながらも、大きく深呼吸をして、
「実は財布と定期券を会社の引き出しに忘れてしまって」
と、蒼井に、今までの一部始終を約二十秒で話した。
蒼井は、「そういうことね」と、少し安心した顔で言った。
シンジの行動は、かなり挙動不審だったのだ。
蒼井は、笑顔で切符代を貸してくれた。
蒼井は、上司の送迎会を兼ねたクリスマス会で、この時間の帰宅になったのだという。
蒼井は、終電が出てしまったので、タクシー乗り場へ向かった。
下り電車が来るまでには少し時間があるので、シンジも南口にあるタクシー乗り場まで送った。
「蒼井さん、ありあとうございます。これで今日も、無事に家に帰れます」
「あははは、大袈裟だ」
蒼井がいたずらっぽくいうと、シンジは軽く頭を下げて、背を向けて歩き出そうとしたときに、
「あっ、ちょっと待って」
と、蒼井は、手帳に貼ってある付箋に、急ぎ何かを書くと、シンジに渡した。
「ぜったい、返してよw」
「はい、ぜったい返します!」
シンジはそれを受け取りながら、自分の間近に迫っている終電目掛けて走り出した。
切符を買って、自動改札機を通りながら、さっき手渡された付箋を広げてみた。
―――そこには、蒼井の携帯番号が書かれていた。
「社内の内線番号じゃない。マジ、すげぇー」
シンジは誰にでもわかりやすい有頂天の笑みで、改札機を通過した。
そのとき、誰かの視線を感じて顔を向けると、あの窓口の駅員さんが、暖かい笑顔で口を動かした。
「えっ?」
『メリークリスマス』
たしかに、駅員さんの口元がそう言っていた。
おわり
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