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角を曲がると、立っていたのは、タキシードを颯爽と着こなす、一人の紳士だった。
「やぁ」
しかし、シルクハットのつばを上げて挨拶するのを聞けば、男装の麗人であることがすぐにわかる。声は深みを帯びていたが、その高さは女性のものだった。タキシードがよく似合っていたが、その下になだらかな曲線を描く身体が隠されているのも、見て取れるのだった。
女は、その姿を見て、立ち竦んだ。
その一瞬の間に浮かんだのは、心細げな迷い子の表情だ。しかし次の瞬間には、その表情は消し去られ、元のふてぶてしさを取り戻している。
「なんだい今更、上前でもハネにきたのか?」
「おや、なんだか人聞きが悪いな。いつも報酬は正当に配分していたつもりなんだけど」
「セートーに配分、ね」
女は、相変わらずしゃらくさい、とでも言いたげに繰り返した。
男装の麗人から視線を外し、ズカズカとスカートをさばきながら隣をすり抜けようとする。
「おれはもう、あんたの顔なんか見たくないんだ。とっとと失せな」
「残念だな。僕はずっとだって見ていたいんだけど」
女は苛立ちを込めて床を踏み鳴らし、立ち止まった。
隣に並んだ相手と、視線が交錯する。短いが、濃密な時間だった。二人で過ごした時間と、確執と、いまだ消ええぬ執着が結晶した重さがあった。
先に沈黙を破ったのは、相手の方だった。
「立ち話もなんだし、場所を変えよう。僕たちのこれからについても……ここはひとまず、ずらかろうぜ」
そう言って、手を差し伸べる。
女の顔にある種の感慨が差した。絵画の知識も、貴人への化け方も、あらゆるものを教えられる中で唯一、女が教えたもの──粗野な言葉づかい。
反射的に、女は手を重ねようとし……指が触れる寸前で、ぴくりと止まる。
その瞬間、男装の麗人の身体は溶け崩れ、ずるりと壁にかけられた絵の一枚に吸い込まれていった。
獲物を逃したことを悔しがるように、絵の表面がとぷりと揺れた。
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