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「えーと……よお」
俺が手を上げると、坂上はものすごく嫌そうな顔をした。
重い前髪に縁の太い眼鏡フレーム、背負われているようなリュックは、記憶通り過ぎるくらい、記憶通りだ。
それに妙に感心した直後、坂上は踵を返すと勢いよく走り出した。
「おおおい待て待て!!」
大学の構内でいきなり走り出した奴を、学生たちがぎょっとした様子で見ている。そりゃそうだ、あいつは意味もなく走り出すタイプの人間ではない。その中に見慣れた顔もちらほら見受けられたが、俺に目をくれる様子はなかった。
……やっぱりそうなのか。
内心落胆しながら、こちらも負けずと足を動かす。いくつかの講義室を通り過ぎて、渡り廊下を抜ける。
坂上には悪いが、俺は結構足が速い。
どこからどう見ても頭脳派でやってきましたという外見の坂上との距離は、あっけなく縮まっていく。
「待て……っての!」
坂上の、いっそ不健康なまでの手首を掴む。
いつの間にか、人気のない校舎裏まで来ていた。
肩で息をしながら、坂上はよれよれと俺の手を振り払う。そして、絞り出すような声で言った。
「安芸……お前、なんで触れるんだよ……」
え、そっち?
と思いつつ、答えを持たない俺としては、肩をすくめることしかできない。
ご紹介にあずかりまして、俺の名前は安芸武。死んでから今日で一年になる。
◇◆◇
とりあえず場所を変えようと、連れられてきたのは大学近くのアパートの一室。
どうやらここが坂上の部屋らしい。生前は一度も来たことがなかったのに、まったく妙な巡り合わせだ。
大学生向けアパートだ。間取りは、生前俺が住んでいた部屋とそう変わらない。変わることと言えば、俺と違って物が少なく片付いていることくらいか。唯一目を引くのは、本くらいだろうか。本棚に入りきらないのか、数冊床に重ねられている。
物珍しさに部屋を見回していると、きょろきょろするなと頭をはたかれる。さっきまで幽霊に触れられることに驚いていた人間がすることとは思えない。
「いってえな」
「痛いものなのか?」
「そりゃ痛いだろ、殴られれば」
後頭部の髪を右手でかき混ぜる。うん、やっぱり感覚がある。少しだけ鈍いかもしれないが。
「……なんで俺の前に出てきたんだ」
責めるというよりは、疑問を投げかけているだけだと伝わる声音だった。
黒縁のレンズ越しに、坂上の目が真っ直ぐこちらを見詰めている。
「いくつか講義被ったくらいで、親しくもなかっただろ。それも今ごろになって」
「うーん」
もう一度がりがりと掻き回しながら、なるべく丸い言葉を選ぼうと頭を悩ませる。
「気を悪くしないで聞いてほしいんだけどぉ」
「その前置きでなんとなくわかったけど、やっぱりお前、俺にしか見えてないのか?」
「わかってんなら言わせようとすんなよな~」
ローテーブルを挟んで向かいに腰を下ろす坂上の肩を叩こうと手を伸ばすと、あっさり身をかわされた。人の頭はたいておいて、自分が叩かれるのは嫌なのかよ。
むっとしつつ、そういえばこいつこんなんだったなと思い出す。
被った講義はいくつかあって、顔を合わせれば挨拶くらいはしたし、隣に座ったこともある。何度か飲みに誘った記憶があるが、坂上のほうに断られた。あまり他人と親しくするのを好まないタイプだとなんとなく察したので、それからは俺も強く誘うことはなくなった。
友達と呼ぶには浅く、知り合いと呼ぶには若干親しい。坂上とは、それくらいの間柄だった。だからこそ、坂上も疑問だったのだろう。
「それで、もう一つのほうは」
「もう一つ?」
話を戻されて、過去に飛んでいた引き戻される。もう一つ、もう一つと考えて、ああと気づく。
「今ごろになって、のほうね」
それで? ともう一度視線で促され、大人しく口を開く。
「今日が俺の命日だからだと思う」
「……もうそんなになるのか」
「おうよ。ちなみに俺の死因とか知ってる?」
「交通事故って、誰かが話してるの聞いたけど」
「うん。どうやら即死だったらしい」
昨年の今日、バイト帰りの交差点で、一時停止違反の車に跳ね飛ばされてそれっきり。
「で、なんで命日になると幽霊になって現れることになるんだよ」
「それはたぶん、みのりと約束したから」
「みのり?」
「俺の彼女。知らない? 必修被ってたはずだけど」
「……名字を教えてくれればあるいは」
思わず吹き出してしまった。
人の彼女相手に失礼な奴、と思わないでもないが、それ以上に、真剣に頭を捻る姿があまりにも坂上らしくて笑ってしまう。
「近藤、近藤みのりだよ」
「ああ……」
すぐ合点がいった様子に、かえって拍子抜けしてしまう。
坂上は、何か思案げな目をこちらに向けた。
「近藤さんにはもう会ったの?」
「いや? 気づいたら事故現場にいて、うろうろしてるうちにコンビニに出てさ。ほら、ああいうところって店内放送があるだろ。それで、今日がいつかわかったってわけ。この時間なら大学かと思って来てみたら、みのりに会う前にお前と目が合って」
「それで追いかけてきたって?」
「だってお前逃げるんだもん」
友達も何人か見かけたが、俺に気づいた奴は誰もいなかった。気づかない、というかそもそも見えていないのだ。
一年前に死んだ人間が現れれば、普通大騒ぎになるだろうに。坂上を追いかけているとき、全力疾走するあいつを見てぎょっとしている人は何人もいたが、俺に目をくれた人は誰一人としていなかった。
「みのりに会いに行っても、あいつ俺のこと見えないんじゃないかな」
「だったらなんで俺は見えるんだよ」
「お前あれじゃないの、ええと、れーのーりょくしゃ?」
「幽霊見たのはお前が初めてだけど」
「そりゃ光栄だ」
手を叩いてやると、坂上は深い溜息をついた。そして、やけに真剣な顔をこちらに向けた。
「俺が近藤さんのことを覚えてたのは、彼女がもういないからだよ」
「えっ?」
「お前が事故に遭ってちょっと経ったくらいかな。大学辞めたみたいだよ」
「そう……なのか」
うん、と頷いて、坂上は続ける。
「風の噂だけど、恋人が亡くなったショックだって聞いた。お前のことだったんだな」
「そっか。みのりが……」
無理もない、と思う。
もし俺が彼女を突然失って、彼女との思い出が溢れる場所に居続けられるかというと、自信がない。大学を辞めたかまではわからないが、勉強なんてしてられるかって気持ちにはなるだろう。しばらくは塞ぎ込んで、講義に出るなんてとんでもないことだったかもしれない。
「みのり、まだアパートにいるかな」
「彼女、実家はこの辺じゃないんだ?」
確か、と以前聞いた地名をあげると、結構遠いなと坂上は眉間に皺を作った。
「安芸、近藤さんとした約束って何なんだ」
「あれっ、俺そこまで言ったっけ」
「言った。なんで命日に現れたのかって聞いたとき」
ああ、と苦笑する。
「たいした約束じゃないんだ。ほら、感動物の映画って、大抵恋人が死ぬだろ」
厚い前髪の下で、眉根の皺がさらに深まるのが見て取れる。
「……感動物の映画をごらんになられない?」
「悪かったな。感動物というか、映画自体そんなに興味がないんだよ。文字のほうがすんなり頭に入ってくるから、どうしてもな」
それでこの本の虫ってわけか。
俺はむしろ文字ばかり見ていたら目が滑るタイプなので、あまり納得はいかないが。
「で、感動映画の話な。恋人が死ぬシーン見て、あいつがショック受けてたからさ、もし俺が死んだら、命日には必ず会いに行ってやるよって」
本日一番の苦い顔である。やっぱり、失礼だと思うより先に笑ってしまった。
「俺だって本気で言ってたわけじゃないんだぜ。そう言ったら喜ぶかなっていうの、お前にだってあるだろ」
「ない」
「なくはないだろ」
「ない」
二回も言った。本当にないらしい。
ある意味で潔いが、どちらかというと人付き合いに苦心しそうだ。だからこそ、あまり他人と距離を縮めないようにしているのかもしれないが。
自分の考察に一人納得していると、坂上はだしぬけに腰を上げた。そのまま、先程床に下ろしたばかりのリュックを背負い、玄関へ向かう。
「えっ、どこ行くんだよ」
「は?」
心底不機嫌そうな顔で、坂上が言う。
「会いに行くんだろ、近藤さんに」
「……付いてきてくれんの?」
「乗りかかった船だ。それにお前、もし彼女が実家に帰ってたら、住所とかわかるのか?」
「あ」
盲点だった。
あんぐり開けた口が、よほど間抜けだったのだろう。坂上が、してやったりと唇の端をつり上げる。こんな顔もできるのかと、俺はさらにぽかんとしてしまった。
◇◆◇
みのりの居所は、案外あっさりと突き止められた。
大学に入学したばかりのころ、流れで作ったグループLINEで聞いたら一発だった。そんな簡単なことすら、死んだ俺には難しいわけだが。
安芸(つまり俺)の一周忌になったら、伝言を頼まれていた――という坂上の主張は少々無理があったが、普段真面目で通っている奴の珍しい頼みだ。個人情報の大切さなど、好奇心の前には無意味だった。
なんで坂上がとか、なんでそんな遺言みたいなことをとか、当然の疑問を適当にいなして、坂上はほんの数分で目的を果たしてくれた。本人は、明日大学に行くのが怖いと頭を抱えていたが。
坂上が危惧したとおり、みのりは実家へ帰ったそうだ。ただ、坂上自身風の噂と言ってた通り、彼の情報にはいくらか間違いがあった。
どうやらみのりは、大学を本当に辞めてしまったわけではないらしい。
俺の突然の死が相当ショックだったらしく、勉強が手に付かなかったのは本当のこと。しかし休学という形を取って、実家で療養しているのだそうだ。
「……よかった」
「悪かったよ、勘違いして」
ガタンゴトンと、隣県へ向かう電車が音を立てて揺れる。
平日昼間の車内は人が少ない。見るからにバンドマンなお兄さんが、ヘッドホンから音漏れさせていたり、シルバーシートで、お年寄りがこくりこくりと船を漕いでいたり。
これならば、二人で話していても目立たない。
「つーかさ、坂上、普通にみんなとLINEとかできるんじゃん」
「なんだそれ」
「ほら、飲み行こうとか誘ってもけんもほろろだし、感動ものの映画は嫌いだって言うし。てっきり人付き合いとか嫌いな奴なんだと思ってたから」
「別に嫌いなわけじゃないって」
苦手なだけ、とちらりと目だけがこちらに向けられる。
「今の見る限りだと、苦手には見えなかったけど」
「気が弱いんだ、俺は」
思わず吹き出すと、じろりと睨まれる。
てっきり冗談だと思ったが、どうやら本気で言っているらしい。
「いやいや。だって気の弱い奴が、幽霊と一緒に電車乗ってまで、下の名前も知らなかった女の子の実家とか、普通行かなくね?」
「じゃあ帰る」
「ま、待て待て俺が悪かった」
本当に立ち上がろうとする坂上の肩を、両手で押し戻す。よし、ちゃんと触れた。
幽霊なのだから触れないほうが正しいのだろうが、感覚があったり、触れられるものがあったりすると安心する。我ながら、おかしな話だ。
手をグーパーさせながら、鈍い感触を味わっていると、なにやら視線を感じた。
今俺に視線を向けるのは、坂上だけだ。隣に目を向けると、坂上はすぐに目を逸らした。
なんだろう、と思わないでもなかったが、これ以上機嫌を損ねて帰ると言われても困る。口を噤むと、再度坂上はちらりとこちらに目を向けて、またすぐに逸らした。
◇◆◇
彼女の地元は、田舎と都会の中間めいた様相をしていた。
ホームに降りたのは俺たち二人だけで、だから駅員からは、坂上が一人で降りたように見えたのだろう。
なんとなしに電車を見送ると、夕日が目を焼いた。幽霊でも、眩しいと感じるらしい。
「……この住所だと、逆側のホームだな」
「向こうか。それじゃあ、さっさと階段昇って……」
「安芸?」
突然言葉を止めた俺を、訝しげに坂上が見上げたのがわかる。だが、俺は逆側のホームの向こう――改札の外に見える人影に目が釘付けになっていた。
「みのり……!」
気づけば駆け出していた。おい、と呼び止めようとする坂上の声を振り切って、線路に飛び降りる。
「安芸!?」
「だいじょーぶ、俺死んでるから!」
それよりも、早くみのりに会いたかった。彼女なら俺が見えるなんて期待をしているわけじゃない。だけど。
なくして初めてその大きさに気づくなんて、陳腐なフレーズがあるだろう。そんな感情でいっぱいだった。
「みのり!」
改札を飛び越える。まさか幽霊を感知したわけではないだろうが、エラーの音声が響き渡る。何事かと改札に目を向けたみのりは、俺の記憶よりもいくらか痩せたように思えた。
「……みのり」
みのりは案の定、俺のことが見えないようだった。
誰に見えなくても、みのりだけは気づいてくれる。そんなことを思っていたわけじゃない。だけど、傷つく感情は理屈ではないらしい。
諦めきれずに、彼女の視線の先に立った。だが、彼女の目は俺の姿を映さない。焦点の合わない視線が、俺の体をすり抜けていく。
そんなとき、ふいにみのりの目が何かを捉えた。合わなかった焦点が、一カ所に結ばれていくのがわかる。
「みの……」
「坂上くん、だよね」
弾かれたように振り返る。そこには、必死に俺を追ってきたようで、肩で息をする坂上の姿があった。
「ええと、久しぶり。……奇遇だね、実は君に言づてがあってきたんだけど」
「知ってるよ。奈美に聞いた」
奈美? と、視線だけで尋ねられる。
「さっきの、LINEでみのりの居場所教えてくれた子」
「ああ、支倉さんか……それで、わざわざ駅まで?」
「うん」
唇を引き結び、みのりが頷く。
そこでようやく、彼女の表情が記憶よりもずっとこわばっていることに気がついた。
こんな表情を、俺は今まで見たことがなかった。当たり前と言えば、そうなのかもしれない。この表情は、気を許した彼氏に見せるものではない。
「あの、さ……坂上くん、ここまで来てくれて悪いんだけど」
ぎゅっと目を閉じて、みのりが続ける。
「もう……帰ってもらえないかなぁ」
耳を疑った。ぎょっとして、うまく言葉が出てこない。言葉が出たとしても、みのりに届くものではないのだが。
だしぬけに、こんなことを言う子ではなかった。それに、奈美ちゃんから坂上がここまで足を運んだ理由だって聞いているはずなのに、どうして……。
ふう、と、坂上が軽く溜息をついたのがわかる。
どう話すべきか、必死に言葉を選んでいるように見えた。だが、彼がそれを決めかねているうちに、みのりが先を続けた。
「うちの家、お金に余裕があるわけじゃないの。だけど頑張って大学に出してくれて、休学中の私のために、今は在学費を払ってくれてる。もうこれ以上、心配も負担もかけたくない……」
「みのり……」
「一年もかかった。でも、やっと……忘れられそうなの」
みのりの小さい両手が、今にも泣き出しそうな顔を覆う。
「ごめんね、坂上くん……。武、くん……っ」
坂上は、何かを言おうとして、結局は諦めた。
ただ、静かにみのりが泣き止むのを待って、黙って傍にいた。そして、今にも暮れそうな空の下で、とぼとぼと踵を返す彼女の背中を、やはり黙って見送った。
◇◆◇
帰りの電車も、やはりというべきか人が少なかった。
ラッシュの時間ではあるのだが、今から都会に向かう人は少ない。だから、話そうと思えば行きと同じように話しながら帰ることもできたのだが、結局坂上の部屋に戻るまで、俺たちは黙ったままだった。
「……馬鹿だよな」
先程と同じ、坂上の向かいに腰掛けて、気づけばそう呟いていた。
「化け出れば喜んでくれるなんてさ、俺、そんな映画みたいなこと、本気で考えてたんだ」
しばらく、坂上は無言だった。
彼が言葉を止めるとき、話す言葉を選んでいるのだと、この数時間でなんとなくわかっていた。
「ずっと考えてたんだ」
坂上の切り出し方は、なんとも唐突なものだった。
「なんだよ」
「どうしてお前は俺にだけ見えるのかって」
予想していなかった話題に、ぱちぱちと目を瞬く。
「お前が気づいてないだけで、れーのーりょくが」
「ないっての」
すぱこんと、また頭を叩かれる。
「たぶんだけど、お前が化けて出て、一番喜ぶのが俺だったんじゃないか……って」
「坂上……」
自分で言っておきながら、どうやら照れているらしい。挙動不審に視線を彷徨わせまくっている。
それを見て、思わず失笑していた。
どうしようもなく落ち込んでいたはずなのに、気づけばぐるぐると渦巻いていた息苦しい感情から、少しだけ浮上している。
「やっぱ、お前できるじゃん」
「……何がだよ」
「そう言ったら喜ぶかなっていうの」
やっぱり、こいつが人付き合いが嫌いだとは思えない。こんなにいい奴と友達にならなかったなんて、俺も馬鹿だ。
相も変わらず照れた顔のままで、坂上が言う。
「安芸、何度か俺を飲みに誘ってくれただろ。だからまあ、その御礼」
「お前一度も頷かなかったけどさ」
軽い気持ちで混ぜっ返したが、坂上は笑わなかった。
「だからさ、お前が次に誘ってくれたら、そのときは行ってみようと思ってたんだ」
「え……」
苦い顔で、坂上が笑う。
「俺、人付き合い下手だろ」
「うーん?」
俺からしてみれば、一考の余地のある自己評価だが、本人はそう信じ切っているらしい。下手なんだよ、ともう一度繰り返す。
「だからさ、よく知らない相手に飲みとか誘われても、普通に身構えるんだよ。酒とか別に強くもないし、そんな仲いいわけでもないし。お前みたいな明るい奴が俺を誘うなんて、何か企んでるのかとか、思うわけだ」
「そんなもんかぁ?」
「これだから陽キャは」
これだから陰キャはと返したら、またぶん殴られそうだ。喉のところで飲み込むと、坂上は苦い笑みを深めてぽつりと呟いた。
「なのにさ、せっかく俺が覚悟決めたら、お前一度も誘ってこないんだもん」
「坂上……」
自分が悪いことをしたわけではないとわかっていながらも、ごめんと呟いていた。それをわかっているのだろう、坂上は軽い調子でいいよと返した。
「俺から誘えばよかったんだしさ」
ず、と無意識に鼻を啜っていた。
泣いたわけじゃない、けど。鼻がつんとして、目頭が熱い。
「え、もしかして泣いて……?」
「泣いてねーし」
「あーもう。ティッシュ……渡して使えそう?」
「知らねーよ。泣かすなよ馬鹿ぁ」
生理現象にはあらがえず、涙は重力に従って落下した。
だけど、地面に届くより先に、なぜか蒸発したみたいに消えてしまった。
◇◆◇
「ところでさ」
ようやく止まった顔面大洪水の名残をずびずびと引きずりながら、俺はどう切り出したものか、必死に頭を悩ませていた。
前置きだけ投げつけて黙りこくっていると、人のいい坂上は「なんだよ」と先を促してくれる。
その不器用な優しさに背中を押され、ええいままよと俺は本題を切り出す。
「本当にもーしわけないのですが! しばらくここに住まわせてくんない?」
「は!?」
理解が追いつかないらしい。坂上は目をぱちくりさせて、俺の顔を凝視している。
「いや、だってお前、命日に彼女に会うために出てきたんだろ? だったら今日が過ぎればもう……」
「俺もそう思ってたんだけどさ、その……」
坂上の背後を指差す。
はっとした顔で、坂上が振り返る。そこには無機質なデジタル時計が鎮座して、つい数分前に日付が変わったことを示していた。
ぎぎぎぎと、機械のようなおぼつかない動きで、坂上がこちらに向き直る。
「い、いやさー、化けて出たはいいけど消え方はわからないっつーか。坂上、成仏の仕方知ってる?」
頭を抱えて、やはり坂上は深い長考状態に入ったようだった。検索エンジンに「成仏 方法」などと打ち込みながら、ああでもないこうでもないと首を捻っている。
俺はといえば、非常事態ではあれど、実のところそこまで焦ってはいなかった。だって、俺は今、一人じゃない。
お人好しな友人は、きっと最後には頷いてくれるに違いないのだ。
死んでから生まれたばかりの信頼は、俺の中で、すでに強固なものとして根付き始めていた。
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