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 レースの後、世界は変わった。  まずはトレーナー。彼は泡吹いて倒れて、起きたかと思えば顔面蒼白で各所を駆け回って頭を下げ、そして医者まで探し出した。諸々が片付いた後、涙混じりになって怒りを露わにした。  叱責はそこそこキツめだった。でも、やはり不快ではなく、むしろ胸の奥が温かくなる。 「変だな。レースに負けたら、皆に見捨てられると思ってたのに……」  同期のスプリンター達も、私を軽蔑しなかった。むしろ前より打ち解けた感がある。今度、下着を見繕ってくれるらしい。もう少し気を遣えと、たしなめられたのだ。 「ずっと孤独だって思ってたのに。なぜかしら」 「ハヤカワさん。バンザイしてください。脇を洗いますんで」  湯気の向こうで微笑むシオリ。本日の風呂はごく普通のお湯。ユズもミカンも無い事は、少しだけ退屈に思う。 「ねぇシオリちゃん。私のせいでフランス行きがダメになって、ごめんなさい」 「またその話ですか? 良いんですよ別に。言うほど興味無かったですし」 「でも、観光を楽しみにしてたでしょう?」 「いやいや、その気になったらお金を貯めて、自費で行きますってば。それにね、実を言うとホッとしてるんです」 「どうして?」 「いえね、もしレースで勝っちゃったら、フランス行きが確定なんですよ。そしたら2週間も丸々、ハヤカワさんのお世話が出来なくなるんで……」 「そんな事を心配してたの?」 「だってぇ……。モブヤマさん当たりが、私のポジションを狙ってるんですもん。今も虎視眈々と」  チラリと脱衣所の方を見れば、何人かが目を光らせていた。そして、手元に泡まみれのスポンジが。  何がこんなにも惹きつけるのか、自分には分からない。 「それはさておき、シオリちゃん。少し付き合ってもらえる? 門限まで時間あるし」 「ほぇ? 何にです?」 「足が治るまで走れなくって。暇だから、料理でも覚えてみようかなと思ったの」 「わぁぁ素敵ですね! ちなみに料理は得意なんですか?」 「包丁の握り方も知らないわ」 「うわぁ先行き不安ですね! でも大丈夫、ご一緒しますから!」  お風呂からあがるなり、スーパーまで買い出しに向かった。そして、食材を片手に悩んでいると、助け舟があった。モブヤマ達がこぞってアドバイスをしてくれたのだ。 「ハヤカワさん。いきなり難しい料理をやるのはオススメしません。卵料理から始めてみませんか?」 「でも、これはお詫びも兼ねてるの。ラタトゥイユを作ってあげたくって」 「目標があるのは良いことですけど、急がば回れですよ。最短距離を突っ切るのは、レースだけで十分ですから」 「ううっ……簡単にはいかないものね」  アドバイスを元に、食材と調味料を買い込んだ。パンパンに膨らんだマイバッグは、ウイタシオリとモブヤマが取り合いになる。お陰で私は手ぶらが許された。  帰り道。3人で肩を並べて歩く。何気なく交わす会話の楽しさといったら。かつてない喜びに、胸が温まるようだ。 「私は孤独だなんて。どうして、そう思い込んでたのかしら」  ふと、立ち止まって空を見る。日暮れで、夜の帳が空を覆った。  私は確かにレースで負けた。しかし、止められた時間が動き出した実感がある。毎日、身体を休めているだけなのに。なぜだろうと思う。 「ハヤカワさん、早く帰りましょうよ。門限過ぎちゃいますよ?」 「そうね、ごめんなさい。今行くわ」  かつて心を惑わせた暗闇なら、影も形もない。今は秋晴れの夜空のように、どこまでも澄み渡っている。 ー完ー  
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