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結局、湯船には浸かった。疲れきった身体が緩んでいく。ユズの華やかな香りも、やたらと新鮮に感じられる。
そして、視界を埋め尽くす湯気も、現実感を曖昧にするようだった。
「いたたっ……。筋を痛めたかな」
気が緩むと、体の不調に気づくから不思議だ。練習の時は何とも感じなかったのに。
改めて冷静になると、無茶なトレーニングだったと思う。大怪我でない事は幸いかもしれない。
「トレーナーさんは、ここまで見越してた? さすがにプロね」
「ハヤカワさん。背中を流してあげますから、こっちに来てください」
ウイタシオリが、ボディソープを片手に言う。鬱陶しい。思索の邪魔だとすら思う。
その気持ちが、態度に出ていたかは分からない。だが少なくとも、彼女は顔色を変えなかった。
「さぁゴシゴシしましょ。それにしてもハヤカワさんの背中って、本当にキレイですよねぇ」
「見え透いたお世辞なんて。逆に失礼よ」
「とんでもない! だってこんなにスベスベで、キメ細かくって、もうほんと……フヒッ」
「笑ったでしょ。やっぱりバカにしてる」
「だから違いますってば! それより、脇あげてください。ピッカピカに磨いてあげますからぁ」
私がバンザイの姿勢を取ると、ウイタシオリは、泡だらけのスポンジを擦りだした。
好きにしたら良い、と思う。どんな経緯があろうと、勝つのは私。そして、敗北からの復活を糧に、スプリンターとして更に飛躍してみせる。
勝つ事だけが私のアイデンティティ。勝利でしか生を実感できない人格。それを哀しいと思う日々は、とうに過ぎた。
「さて、ハヤカワさん。湯当たりしちゃうから、もうあがりましょう。ユズを沈めてピョイさせる遊びも、そろそろお終いにしてくださいね」
私は孤独だ。だけど、レースだけは別だった。皆と肩を並べて、名誉とプライドを賭けて争う時だけは、途端に世界が変わる。
純粋な意地と、培ったプライド。それをぶつけ合っていると、レース場に不思議な一体感が生まれる。あの瞬間は好きだ。世界の端で孤立した魂が、救われたような気にさせられるから。
「はい、タオルで拭きますからね。ちゃんとやんないと、風邪ひいちゃいますもん」
「自分で拭けるわ」
「ダメですよ。ハヤカワさんは拭くのが下手だから、ビッショビショのままでシャツを着ちゃうじゃないですか」
代わり映えの無い日常は、苦痛そのものだ。早く走りたい。レースに出たい。それ以外はもはや、邪魔としか思えなかった。
「ハヤカワさん。腕が疲れてご飯が食べられないと? じゃあ私が食べさせてあげますね。ア〜〜ン」
「あーーん」
「美味しいですか?」
「普通」
「お口にあいませんでしたか。では、お肉メインで食べましょうか」
「ソースを多めに。美味しいデミグラスだから」
「はいはい、たっぷりベットリ塗りたくりますよ〜〜」
いっそ眠りの世界に埋没できたら、と思う。そうすれば、生きる哀しみに襲われる事もない。
そんな願望がある事は自覚しているけど、夜に寝て朝起きる。同じサイクルを絶えず繰り返している。
「ハヤカワさん。明日は朝練ありますか? また30分前に声をかけますから。今度こそは、ブツクサ言わずに起きてくださいね」
私は孤独だ。勝利でしか自分を証明できない。大敗北を喫したあの日から、私の時計は止まったままだ。
「ウイタシオリ。再び人生の歯車を回すためにも、アナタを打ち破ってみせるから」
呟きに返答はなかった。背後からは濃い寝息が聞こえてくる。
もう一度だけ呟いてみた。必ず勝つと。それでも、私の背中に抱きついて眠るウイタシオリが、応じる事は無かった。
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