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 青々と茂るターフを風が撫でてゆく。ついにやって来た本レース。秘策も準備も、すべて整えた。  あとは覚悟を決めるだけだった。 ――さぁいよいよ始まります。モニュッコロムニャムニャ杯! フランス行きのチケットを賭けて、あるいは最強の座を勝ち取る為に、スプリンター達が全力で競い合います!  私の枠番は7。そして、ウイタシオリは5。ひとつ飛ばしだけど、問題ない距離。策が発動すれば確実にハメる自信があった。 ――走者ゲートイン。セット。  正面は誰も居ないターフ。そこを駆け抜ける。今日こそは、必ず私が、先頭を行くのだ。 ――いざ、尋常に……。試合えーーッ!  その言葉とともにゲートが開いた。一斉に駆け出してゆくスプリンター達。  私も飛び出す。隣にウイタシオリ。射程内、捉えた。   「今日も頑張りましょうね、ハヤカワさん……って、ええ!? どうして急に脱ぎだしたんですか!?」  私はユニフォームの上を雑に脱いだ。それを羞恥心とともに、ターフに放り投げる。  全ては勝利のため。たとえ、ワゴンセールでまとめ買いしたチープな下着を、大衆の前で晒そうともだ。 「あわわ、早く服を! 観客には男性も多いんですよ!」 「ふふん。まだまだ、こんなものじゃないわ!」  私はその場で寝転がる。そして、転がり転がり、転がり倒す。鼻息がフンッと漏れる程度には、力を込めて念入りに。 「ちょっとハヤカワさん! レース中なんですけど!」 「あぁ大変。身体が汚れてしまったわ。何か拭くものが欲しいところね」 「あっ、本当だ……。ハヤカワさんのお背中が、草ッ草の草! クッソ汚い緑色になってます!」 「濡れタオルか何かを持ってない?」 「うう……。じゃあ、控室まで行ってきます!」  作戦はものの見事に成功。ウイタシオリは、コースから大きく外れて明後日の方へと走り去った。 「悪く思わないでね。勝負の世界に情けは無用なの」  無事、ライバルは葬った。しかし私とてウカウカしていられない。他の走者は遥か向こう、既に第1コーナーを回ろうとしていた。    ここからは小細工なし。掛け値なしの全力をぶつけるだけだ。 ――おおっとハヤカワアヤメ、やっと動いた! 何かモチョモチョしてましたが続行する模様です! それにしても、実況席からはブラジャー姿にしか見えないのですが、大丈夫なのでしょうかッ!  1秒たりとて無駄にしたくない。だから走る。恥は一瞬、しかし後悔は一生だ。 「さぁ、鼻先を取りに行く……ッ!」  いきなり前傾姿勢、トップスピード。遠くの背中がみるみるうちに近づいてくる。追い越す為の隙間。見えた。針を縫うようにして1人、また1人追い抜く。  そうして捉えた先頭集団。目にした途端、腹にカッと熱いものが差し込んできた。 「退きなさい! そこは私の場所よ!」  吠える。怯えたスプリンターの足が緩んだ。チャンス。また追い抜いて、第2コーナーを回る。  やがて最終直線を迎えた頃には、私の前に走者は1人もいなかった。 「ゴールまであと少し、200メートルだけ!」  余力はない。肺は破裂しそうなまでに痛み、足の感覚も薄い。  それでも先頭だった。リードは半身差、油断ならない距離だ。  これを最後まで維持すれば勝てる。私は、このレースを勝利で飾り、輝かしい戦歴を積み重ねる。苦しい時期を乗り越え、止められた時計の針を進めるのだ。  だがその時だ。背後から、背筋の凍りつくような声を聞いた。 「ハヤカワさーーん!」 「ウ、ウイタシオリ!?」  恐怖。そうとしか言えない。腸(はらわた)に響く程の寒気は、瞬く間に全身を駆け抜けた。 「そんなバカな、もう戻ってきたの? いくら何でも速すぎる……!」 「待ってくださいよハヤカワさーーん。背中をキレイキレイしましょーー?」 「嫌、嫌……ッ! 絶対に嫌! ここで負けちゃったら、私は何のために手を汚したと……!」 「ハヤカワさーーん、着替えもありますからコレ着てくださーーい!」 「ヒッ!? 来ないでーーッ!」  走るしかない。ゴールを誰よりも先に切る。それだけだ。 「ハァ、ハァ! 遠い……!」  一歩が、いや半歩すらも苦しい。今すぐにでもターフを転がって、倒れ込んでしまいたい。  でも。だけど。そうだとしても。私は走り続けるべきだ。 「届け、届け……」  テープが見える。あれを切れば勝ち。たとえ不名誉でも、勝者になれる。  ウイタシオリは3着の位置。近い。せいぜい1身差。2着とも変わらず半身差。気を抜いた瞬間、たちどころに先頭を奪われてしまいそうだ。 「届け……! お願いだから! 届いてーーッ!」  手を伸ばす。未来、希望、アイデンティティ。今つかんだ。真っ白で、混じり気のない、心から渇望したものを。 ――おっと渾然一体となってゴールテープが切れた! 果たして勝利は誰の手に! 気になる結果は映像解析を挟んでとなりますので、今しばらくお待ち下さい!  私はその場に倒れ伏した。もう一歩すら歩けない。勝ったという確信はあるが、結果を見るまで油断できない。電光掲示板は、今も『解析中』と点滅するだけだ。 「やっと追いついたぁ。ハヤカワさん速すぎますよ」  「えっ。どうして? アナタなら、全力を出したら、私なんて……」 「いやいや全然でした。あとちょっとで届くと思ったら、更に速くなるんですもん。後ろに付くのが精一杯でしたよ」 「それじゃあ、私は……。最初から勝負してても……?」 「そんな事より背中! それから服! 風邪ひくわ恥ずかしいわで、ちょっとしたピンチですよ!」  甲斐甲斐しく背中を拭ってもらい、ジャージも着させてもらう。抵抗する気力も体力もない。  それからチャックを上げきった頃、ついに結果が出た。電光掲示板に走者の名が並ぶ。 ――長らくお待たせしました! 1着はヒメノユリア!   続けてモチダ・ロバート・マクスウェル、カイマキタイチャン。この3名が表彰台を登ることになります!  嘘。どうして。1着は私のハズ。解析所に抗議をしないと。  よろめく足を奮い立たせていると、事の顛末が明らかになる。 ――なお、ハヤカワアヤメは不適切行為と過干渉。ウイタシオリはコースアウトにより棄権扱いとなりました!  それを聞いた途端、全身から力が抜けた。確かにルール違反の振る舞いだった気がする。  何故あらかじめ、失格の可能性を考慮できなかったのか。そこまで自分を見失っていたという事か。あまりにも滑稽。私は、自分の浅はかさを嘲笑うしかなかった。 「何それ。ほんとバカみたい……」 「ハヤカワさん。さっきチラッと見えたんですけど、外に美味しそうな屋台が出てましたよ? 国産和牛のブッカケ玉子丼ですって!」 「アナタは、私を恨んでないの……?」 「ほぇ? 何がです? それよりも早く行きましょうよ! 行列できてるから、ウカウカしてると無くなっちゃう!」 「いや、待って。もう足が動かないの」 「だったら肩を貸します。さぁさぁ、B級グルメを食い散らかしてやりましょうよ!」  無様だ。騙し討ちした相手の肩を借りて、ヨロヨロと逃げ帰る姿は。しかも失格。勝利をもぎ取る事も出来ず、ただただ、不名誉を積み上げただけだった。  ちなみに屋台の丼は絶品だった。甘辛のタレ、柔らかお肉、何よりも温かだ。噛みしめる度に、涙が溢れて止まらなくなる。それでも不快に感じないのは何故だろうか。全く理解できずに戸惑う。  結局は考える事をやめた。だから、夢中になって頬張るウイタシオリの姿だけを、そっと見守り続けた。
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