五、お狐さまの嫁

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五、お狐さまの嫁

「邪魔するな! 老いぼれ狐」  詩織の外側がボロボロと剥がれる。姿を現したのは小夜の体の灰はあろうかと言う大きさの猪だった。片目がひどい傷で潰れてしまっている。  狐がさよを抱き上げて、突進してきた猪をふわりとかわす。猪に激突された壁が崩れて、二人は娘の部屋から飛び出た。  館の門を出ようとする二人に猪が追い縋る。その足元に一本の矢が突き立った。矢を放ったのは領主だった。 「だめだ、詩織」 「まだその名で呼ぶか。すでに私がお前の娘でないことはわかっているだろうに」  領主は矢をつがえた弓を引き絞ったまま、猪をひたと睨んだ。 「お前に人恋しいから村娘を連れてきて欲しいと言い始めた時は疑っていなかった。だが、連れてきた娘達はしばらくするとどこかへ消える。森で人の骨を見つけたときは気が狂いそうになった。それでも俺は頭をよぎる最悪な考えから目を背けていた。俺の娘は生きていると思いたかった。娘を差し出させた村に米をやっていたのだから、真実はわかっていたはずなのに」 「お前の娘は私がとうに喰った。私の子を食った報いだ」 「そうか。お前はあの時の母猪か。あの時、崖下に落ちたお前を追ってトドメを刺すべきだった」  領主が両目から涙を流して矢を放つ。同時に飛び上がった猪が領主の上半身に喰らいつく。同時に矢に首を串刺しにされた猪は白目をむいてどうと倒れた。領主も倒れ絶命した。 「なせ、お前がその娘を助ける」  猪は瀕死だった。狐が彼女に答える。 「人は勝手だ。勝手で傲慢ですぐに死ぬ。それが嫌になってしばらく社を留守にしていたが……」 「ならば」 「だがそう悪くはないことを思い出した」  狐は、昔賑やかだった頃の神社に集う村の人々と過ごした過去を思い起こして、唇に弧を描く。 「人間は敵だぞ」 「違う存在だが、全く受け入れられないほどではない」  猪は不満そうに鼻を鳴らした。 「同じ獣のくせに一段上にいる気か? 貴様も私を畜生と、踏み躙られて当然の存在と蔑むか。お前のことも喰って私が神になり変わってやろうか」 硬い顔のさよが(逃げよう)と狐の袖を引く。狐は(大丈夫だ)と、そっと彼女の手を止めた。 「俺など喰っても神にはなれんよ。それにどうやら私はこの子どもの夫のようなのでな」 と、言った狐にもう猪は答えなかった。 「大体、お前は私を喰えない」  袖を握りしめたままでいたさよの頭を、狐はなでた。泣き顔の彼女に優しく笑った。 「もう死んでいる」  二人が村に着くと、山の輪郭は薄闇に溶け始めていた。霊狐としての能力を使えば日のあるうちに帰れたのにそうしなかった。どうやら私はこの子供との別れを惜しんでいるらしい。「息災でいろ」と向けた背に柔らかな感触が触れた。狐は一度見張った目を閉じた。再び開けて振り返ると、出会った時と同じまっすぐな目が狐を見上げている。 「お狐さま」 「なんじゃ」 「お狐さまはおいくつですか」 「歳のことか?」 「はい」 「四百……とあと少しくらいかの」 「じゃ、あとどれくらい寿命が残っているの?」  この娘はなんということを聞くか……と狐は呆れた。しかし嫌ではない。 「うむ。あと残り五十年、六十年ほどかの」 「じゃあ、どちらか先に死んでも、ずっと一人きりにはならないですよ」  あっけからんと言われて狐は苦笑した。苦笑して、 「仕方ない、ならばお前に看取ってもらうことにしようかの」 と、狐もさよを抱きしめた。 〈了〉
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