6人が本棚に入れています
本棚に追加
一、始まり
おかしな天気だった。月は出ているのに雨が降り止まない。
夜空に張った薄雲の間から差し込む月明かりで、かろうじて効く視界で崖下を見下ろすと、この三日獲物を探して歩き回った森は生い茂る木々が夜の闇に沈み、真っ黒な巨人が並んで座り込んでいるように見えた。
男は顔を濡らす雨を片手で払い落とす。不眠不休で歩いた足裏の皮は剥け、足の指の全ての爪が剥がれ落ちていた。領主である自ら猟をするのは何年か振りだ。ここ数年の天候不順で作物はどんどん採れなくなっている。男自身も領主とはいえ館に貯蔵していた穀物でなんとか食い繋いでいる状態だ。とはいえそれも残り少ない。
厳しいのは人も人以外も同じようで、これだけ歩き回っても野ウサギ一匹出くわさない。それでも粘っているのは館で待つ娘のためだ。
娘は、熱烈な恋愛の末結婚した大事な妻の忘れがたみだ。体が弱く、最近目が見えなくなってきていることが気がかりで仕方ない。
何か、少しでも栄養の取れるものを与えてやりたい。
背中の矢筒が雨を吸って重い。白い息を吐いて男は周囲を見回した。
そろそろ家の者たちがなかなか帰らない自分に本気で心配し始める頃だろう。諦めて一旦帰るべきだろうか。男の心が自分の館を指そうとした時、すぐ目の前の茂みの葉が大きくガサっと揺れた。
現れたのは親子の猪だった。反射的に射った矢は子猪の脳天を貫いた。腹を横に倒れた子猪を見て母猪が怒りで真っ赤になった目を男に向ける。
母猪の突進の気配を感じながら二の矢を放つ。眼前に迫る猪を横に飛んで避ける。猪は男の背後の崖下へ真っ逆さまに落ちていった。崖の先端、地面が切れている土の上にはベッタリと赤い血がこぼれていた。
すぐ引き返して男は子猪の死体を担ぎ上げた。
すぐに帰って、この肉を娘に食べさせてやらなければならない。
最初のコメントを投稿しよう!