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23
カーラとフォーヴァ。
トルグは、彼らとともに六年をすごした。
トルグにとって、アイン・オソに来てから一番楽しく穏やかな年月だった。
しかし子供は成長する。二人が予備舎へ行く時がやってきた。カーラはもっと早く行けるはずだったのだが、フォーヴァと一緒にとミトルが判断したのだ。
二人はそろってトルグのもとを離れ、この家を片づけ次第、トルグも一教師に戻ることになる。
「予備舎でいつでも会えるよね、トルグ」
期待を込めてカーラが言った。
「いや」
トルグは微笑み、首を振った。
「わたしは本舎に行くよ。予備舎では、きみたちの方ばかり見てしまいそうだからね」
「ぼくも、すぐに本舎に行く」
めずらしくフォーヴァが口を開いた。ひょろりとしたまま伸びた彼の背丈は、じきにトルグを追い抜きそうだ。カーラの方は、とっくにトルグを追い越していたが。
「予備舎では、学ぶことがたくさんあるんだよ、フォーヴァ」
トルグは言った。
「わたしはきみたちに、予備舎にはじめて入ってくる子たちと同じくらいのものしか教えていない。算術とか、地理歴史とかね。予備舎ではもっとさまざまな学問が待っている。きみたちの〈力〉は誰でも認めることだが、〈力〉は、知識があってこそさらに大きなものになる。焦ってはいけない。じっくり学んでおいで」
最後の夜、三人はさしたる会話もせず、ただ居間のテーブルを囲んで残された時間を愛おしんだ。
「そろそろ寝るとしようか」
トルグは、なかなか動こうとしない少年たちに声をかけた。
「うん」
カーラが名残惜しそうにうなずいた。
「トルグ」
フォーヴァがぼそりと口を開いた。
「なんだい? フォーヴァ」
「トルグには、ぼくのことを全部知って欲しい」
トルグは、優しいまなざしをフォーヴァに向けた。
「知っているつもりだったが」
フォーヴァは首を振った。
「ぼくは捨て子じゃない。母さんがいた。母さんが死ぬ前にロイダに預けた」
ロイダはフォーヴァを育てた老魔法使いだ。フォーヴァが彼女のことを話すのは初めてだった。
「そうか」
「ロイダが母さんの名前を教えてくれた。誰にも言わずに、大切に心にしまっておきなさいって。でも、トルグには話したい」
「おれは、いない方がいいかな」
カーラが気を利かせて口をはさんだ。
「カーラも」
フォーヴァはカーラを見やった。
「カーラがぼくの心を見ようとして、とどかなかったものだ。ほんとうは、もっと早く教えればよかった」
「ありがとう」
カーラは笑みを消し、心持ち背筋を伸ばした。
「今日の記念だな。聞かせてもらうよ」
フォーヴァはトルグを見た。
トルグはうなずいた。
これほど信頼してくれるフォーヴァが愛しかった。彼らと別れることを一番悲しんでいるのは自分なのだと、今さらながらに思う。
「母さんの名は」
フォーヴァは、静かに口にした。
「リイシャ。魔法使いのリイシャ」
夜更けにもかかわらず、トルグは〈塔〉に向かった。
よくあれだけ平静を装えたものだ。
小さな子供にでもするようにフォーヴァの頭を撫で、カーラに言った。
「フォーヴァを頼むよ、カーラ。わたしは、もう一緒にはいられないけれど」
二人が眠りにつくのを待って家を出たのだ。
〈塔〉の玄関広間は森閑として誰もいない。右側の階段を上り、いくつかの扉が並ぶ廊下に出る。二つ三つ明かりが漏れている扉もあった。ここは教授の助手たちの居住区で、まだ起きている者もいる。トルグは、その一つの扉を叩いた。
扉が開き、ぬっと顔を覗かせたのはウゲンだった。かつてウゲンに化けたデュレンの言っていたことはほぼその通りで、彼は魔法使いの認可が下りた後も〈塔〉に残り、今ではジーマの一の助手を務めている。
「どうしたんだ、トルグ」
ウゲンは驚いたように言った。
「ジーマ教授に取り次いで下さい、ウゲン」
「もう遅い。明日ではだめなのか」
「今です。わたしはどうしても彼女に会って話したい」
ウゲンはトルグのただならぬ様子に眉をひそめた。部屋の中に入れ、
「何があった?」
「ジーマ教授にお聞きしたいことが」
「落ち着け。心が乱れている」
乱れない方がどうかしている。
トルグは思った。
リイシャはすでにこの世にはおらず、彼女が残した子供がフォーヴァとは。
ウゲンはトルグの肩に手をかけて軽く揺さぶった。トルグは固く目を閉じて、なんとか精神を整えた。
「お願いです、ウゲン。すぐに」
ウゲンは慮るようにトルグを見つめ、やがてジーマに向けて思念をこらした。
「執務室で待っていろと言うことだ、トルグ。灯りを渡そう」
ジーマの執務室はさらに上階にあり、部屋に入ったトルグはランプに灯を点すことなく、手にした燭台を机の上に置いた。
ジーマが来た時、トルグは揺らめく蝋燭の炎をただじっと見つめていた。
「トルグ」
ジーマは悟ったように声をかけた。
「ジーマ教授」
トルグはかすれた声でささやいた。
「あなたは知っていたのですね。フォーヴァがリイシャの子供だと」
「ええ」
しばらく間があって、ジーマは、ゆっくりとうなずいた。
「ロイダとわたしは、学生のころからの友人なの。リイシャはそれを知っていて彼女を頼ったのでしょう」
「リイシャは死んだ」
「フォーヴァを産んで間もなくね。ロイダが看取ったわ」
「わたしは、何も知らなかった」
「わたしも知らなかったわ。ロイダが教えてくれるまで」
二度と会えないことはわかっていた。しかし、どこかで生きていると信じていた。ところが突然リイシャの死を知らされ、自分が彼女のいない世界で変わらぬ日々を送っていたことに愕然とする。
「フォーヴァの父親は」
トルグは、やっとのことで問いかけた。
「ラウド先生ですか」
ジーマは腰のあたりで両手を組み合わせ、目を伏せた。
「ちがう」
静かにため息をつき、
「だったらよかったと、思いもしたわ、トルグ。でも、あの子に父親はいない」
「どういうことです」
「フォーヴァは、リイシャの最後の魔法なの。リイシャはアンシュの手を持っていた」
トルグは、はっとした。アンシュの手は、あの世界とともに消滅していなかったのか。
リイシャが、ずっと持っていた?
トルグは身を強ばらせた。
そして──。
「リイシャはアンシュの手から細胞を取り出した。それから命を削るほどの、ありったけの〈力〉を使って自分の内に入れ、彼を宿したのよ」
「なぜ…」
トルグは両手で顔をおおった。立っているのがやっとだった。
「なぜ、そんなことを」
「リイシャはラウドを救いたかったの。アンシュの穴の一部になってしまった彼を救うには、すべての〈穴〉を消滅させるしかないと考えた。それには、アンシュと同じ〈力〉を持った者が必要だったのよ」
「フォーヴァがアンシュになったら、どうするんです」
「フォーヴァはアンシュそのものではないわ。アンシュの血を引いたリイシャの子供よ。そうならないように育ったはず。あなたのおかげもあるけれど」
「フォーヴァは」
トルグは声を震わせた。
「自分が何のために生まれてきたか知らないんだ」
「いずれ、自分の役割を見出すでしょう。リイシャの魔法はまだ生きている」
「ひどいことを」
トルグは、リイシャに対してはじめて怒りを感じた。
リイシャは自分の命をかけてまでフォーヴァを生み出した。
ラウドに対する愛は、それほど深いものだったのだ。
しかし、フォーヴァはどうなる。フォーヴァはリイシャにとって、ラウドを助けるための最後の魔法、アンシュの穴を消滅させるためだけに生まれてきた道具にすぎないのだ。
フォーヴァが哀れだった。
それを知った自分も哀れだった。これからどうやってフォーヴァに接すればいいのか。
「トルグ」
ジーマは言った。
「これからもフォーヴァを支えてあげて。フォーヴァにはあなたが必要よ」
「いやです」
トルグは、叫ぶように答えた。
「トルグ…」
トルグは大きく呼吸して心を静めようとした。しかしうまくいかず、髪の毛を掻きむしった。
「フォーヴァを嫌わないで、トルグ」
トルグは首を振った。嫌えるわけがない。ずっと愛おしんできた。
だから辛いのだ。
フォーヴァの運命を考えると、自分の無力さに慄然とする。いまの自分には、彼のためにしてやれることは何もない。近くにいることすら、苦しいというのに。
「時間を下さい、ジーマ教授」
トルグは両手で顔をこすり、ささやいた。
「お願いです。わたしはアイン・オソを出たい。今すぐにでも」
朝霧に霞む船着場に、駈けてくる二人の少年の影が見えたような気がした。
トルグは思わず目を背けた。視線を戻した時、中州の岸はすっかり白い霧に覆われていた。
舟は、すでに河の中ほどを渡っている。家に戻ることなく、トルグはまっすぐにこの舟に乗り込んだのだ。
トルグは急な使命でアイン・オソを出ることになったと、ミトルが二人に伝えてくれたはずだ。その時の二人のことを考えると心が痛んだ。
ことにフォーヴァ。
フォーヴァには、何の罪もないというのに。
カーラが傍にいてくれることだけが救いだった。これからもフォーヴァの力になってくれるだろう。
トルグがカーラと暮らしはじめたのも、今思えばフォーヴァを受け入れるための地ならしだったのかもしれない。
ジーマたちがそうさせたのだ。それだけは感謝しなければ。フォーヴァにカーラという存在を与えてくれたことに。
そして自分は遠く離れた場所で、フォーヴァとカーラにずっと詫び続けることになるだろう。
流れる霧は身体中にまとわりついた。
トルグは、しっとりと重くなった外套の頭巾をさらに深く被った。
たちこめる霧はますます濃くなって、影のように残る中州の塔もやがて白の中に姿を消した。
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