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10
弔鐘が打ち鳴らされた夜から、アイン・オソは喪に入った。
学生たちは自分の部屋を出ることなく、与えられた水と六個の黒パンと一掴みの木の実だけで六日間を過ごすのだ。
静まり返った中州に冷たい春の雨が降り続いていた。
トルグは寝台の端に座って、窓の外を眺めた。人気のない広場も鐘楼も、篠つく雨に煙るようだった。〈塔〉の灰色の影の尖端は雨雲に隠れて見えなかった。
配給の火鉢の炭も切れそうなので、トルグは毛布にくるまった。こんなことになるとわかっていたら、もう少し節約していたのに。
寒さと不安を追い払おうと、トルグは瞑想の姿勢を保った。しかし、心を澄ますことはなかなか出来なかった。
悶々と六日間が過ぎた。
トルグは朝早く、ランフェルのもとに向かった。新しい教授が選ばれるのは喪明けの日と聞いていたから、その前にランフェルの顔を見たかったのだ。
ランフェルの住居の前でハルトに会った。彼も早くランフェルに会いたかったのだろう。それとも、トルグのようになにか不安を感じていたのか。
鍵も掛けられていないランフェルの家だ。ハルトは、軽く戸を叩いて部屋に入った。トルグも後に続いた。
窓から入る陽の光が部屋の真ん中を横切っていた。
ランフェルは、お気に入りの揺り椅子に座っていた。
身体を前のめりにして、寛衣の中に埋まるようにして。
眠っているのかと思った。
ハルトはランフェルの横に屈み込んで、そっと顔をのぞき込んだ。
「先生」
そして、はっとしたように両肩に手をかける。
「ランフェル先生」
ランフェルの身体はがくりと前に倒れ、ハルトの腕の中にすっぽりと入った。
「ハルトさん!」
トルグは驚いて叫んだ。
ハルトはランフェルの首筋に手を触れた。トルグをに首をめぐらし、ささやいた。
「脈がない」
トルグは息をのんだ。
「蘇生を──」
「だめだ。もう硬直している」
ハルトは声を震わせた。
「おそらく、昨日の夜あたり」
トルグは、呆然とランフェルを見つめた。
不安のもとは、これだったのか?
揺り倚子に戻されたランフェルの顔は、すでに蝋のような白さを帯びていた。眉をよせ、歯を食いしばった苦悶の表情。師に一番似合わない表情だ。
何かの冗談だと言いたかった。蝋の面をはぎ取ってぴょんと起き上がり、笑い飛ばしてくれるなら──。
「致命的なところはどこにもない」
ハルトは顔をこすった。
「脳の血管も異常ないようだ。心臓?」
「先生はどこも悪くなかった。元気だった」
「ああ、そうだ」
ハルトはふりしぼるように息を吐き出した。
「いったい、何が起こったんだ」
その時、ファロムとウゲン、イルーが連れ立ってやってきた。トルグたちを見て立ち尽くす。
ウゲンとファロムが他の教師を呼びに出て行った。イルーが涙を流しながらもランフェルを横たえる寝台を整えた。
数人の教師が駆けつけた。彼らが出した答えは同じだった。ランフェルは昨夜、突然の心臓発作におそわれたのだと。
新しい教授決めは〈塔〉で予定通り今日の午後に行われる。ランフェルの葬儀は明日以降になるだろう。
ランフェルの死を知った教師たちが〈塔〉に向かう前に次々に弔問に来た。
「残念だ」
時間まぎわまでいてくれたトームが言った。
リイシャのはじめの師だった人だ。癖のある赤毛は白髪交じりだったが、ランフェルよりは十年若そうだ。小太りで細い目に二重顎、人のよさげな顔を歪めてため息をついた。
「ランフェルを推す者は多かった。まさか、こんなことになろうとは」
「ランフェル先生は、教授になったかもしれないんですね?」
ハルトが訊ねた。
「ああ。まあ、いま言っても詮無いことだ。明日、また来る」
トームは行ってしまった。
「まだ信じられない」
ハルトはつぶやいた。
五人は主のいない揺り椅子をかこんで、いつも通りの場所に身を落ち着けていた。ハルトとイルーは食卓の倚子を引き出して座り、ファロム、ウゲンとトルグは燃えさかる暖炉の脇の長椅子に膝を並べる。
「先生は、元気の塊のような人だった」
みなは一斉にうなずいた。
「おかしいと思わないか」
ウゲンが声を落として言った。
「よりによって、教授選出の前の日に」
「どういうことだ?」
ファロムが眉をひそめて言った。
「先生を教授にしたくない者がいたのかも」
「まさか」
トルグはぎょっとした。
イルーが身を乗り出して、
「先生は、ただの心臓麻痺ではなかったということ?」
「臆測はやめろよ、ウゲン」
ファロムはウゲンの腕を掴んだ。
ウゲンは暗い目でファロムを見返した。
「だが、ランフェル先生の死で得する者もいるはずだ」
「先生たちは、みんな悲しそうだったよ」
「見せかけだけなら、どんな素振りもできる」
ウゲンはトルグに言い、肩をすくめた。
「ランフェル先生の死を不審に思う先生はいないのかしら」
「思っても、おれたちの前では口に出せないだろう」
ハルトが首を振った。
「学生の目がとどかないところで、さまざまな確執が生まれている。おれのようにアイン・オソに長くいると、耳に入ることもあるよ」
「まあ、魔法使いとて人間だからな」
ウゲンが頷いた。
「古くから在りつづけたアイン・オソだ。淀んでくるのも無理はない」
「わからないわ。どういうこと?」
「アイン・オソが生まれた最初のころ、魔法使いたちの志はひとつだった」
ハルトは前屈みになり、両膝に両手を乗せて語り出した。
「アンシュのような者が現れないように無私の心を持ち、無用な〈力〉は使わず、ただひたすらヴェズに奉仕することをめざした。しかし、時がたつにつれ、違う考えを持つ魔法使いも現れた。〈力〉はもっと解放されるべきではないのかと。ヴェズをさらによりよくするために、魔法使いは思うさまに〈力〉を使うべきではないかと」
「真逆の考えね」
「ああ。ムルガイ教授はどちらかというと保守派だったようだ。ランフェル先生もそうだろう。先生が教授の座につけば、これまでと同じ力関係が続いたろうが、違う考えの先生が教授になれば──」
「アイン・オソは変わるかもしれない」
トルグは息を詰めてハルトとウゲンを見ていた。
ランフェルの死は、本当に誰かにもたらされたものなのだろうか。
あり得ないことだと思った。このアイン・オソでそんなことが行われるとは。二人は師の突然の死を認めたくないがために理由を引き出そうとしているのではないか。
「でも、もしそうだとして」
ファロムが言った。
「わたしたちに何ができる?」
「できない、いまのところは」
ハルトは深いため息をついた。
「とりあえず、誰が新しい教授になるか見とどけるとしよう」
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