6人が本棚に入れています
本棚に追加
16
「今日は豚だよ」
のんびりとミトルが言った。
「腑分けはきみにまかせていいかな、トルグ。わたしが生徒たちに解説する」
「わかりました」
トルグは予備舎の離れにある解剖室で、次の時間の準備をしていた。ミトルを手伝うことになっていたのだ。
一枚岩の解剖台を浄め、ナイフやらピンセットやらを取りそろえた。切れ味が悪くなっているものは井戸水を引いた流し台で念入りに研いだ。
外は今にも雪が降りそうな灰色の雲がひろがっていた。風を通すために四方の窓を開け放ったので、室内はだいぶ寒かった。数個の火鉢が置かれてはいるものの、さして役にはたっていない。
「きみの言う通りにやってはみたよ」
火鉢台に手をかざしながらミトルは言った。
「だが、うまくいかない。こつのようなものはないのかな」
「こつ?」
ナイフの切れ味をみていたトルグはミトルに目を向けた。
「水晶玉のことさ。どうしても濁ってしまう」
トルグは首をかしげた。
「〈力〉を極力純化させることでしょうか」
「純化ねえ」
面白そうにミトルは笑った。
「わたしは雑念だらけだからな」
一月過ぎても、トルグの水晶玉に濁りは浮かばなかった。
エチューダは水晶玉をためつすがめつしながら、嬉しそうに言ったものだ。
「すばらしい。中の〈力〉に変化はないようだ。どんなふうにしたんだね?」
「押し込めた〈力〉を圧縮して、水晶玉の内にさらに玉を作ります。内部で恒常的な回転を与えていれば、〈力〉が逃げることはありません」
「なるほど」
他の魔法使いたちも試しているが、なかなかうまくいかないらしい。
「きみの〈力〉を使ってみたいものだな」
笑みをうかべたままミトルは言った。
「貯めた本人しか〈力〉を引き出せないのがあれの難点だ」
トルグは曖昧に笑いかえした。
自分には思っている以上の力があるのだ。
しかし、ランフェルが教授になっていたら、自分は本当に魔法使いに認可されなかったのだろうか。
ランフェルは学生たちの〈力〉を高めようとはしなかった。おそらく彼らが排除されることのないように守ってくれていたのだ。トルグの髪が灰色になり、〈力〉が明らかに強くなってきたのはランフェルの死後からだった。彼が生きていれば、トルグは自分の〈力〉がどの程度のものなのか知りもせず、平凡な魔法使いになっていたかもしれない。
それでよかったはずがない。
リイシャに何が起きているのかを知るためには、もっと大きな〈力〉が必要だ。
だから今となってはランフェルの死に、どう向き合っていいかわからなくなる。わかっているのは彼の死が、自分の行く先を大きく変えてしまったということだけだ。
「今夜の集会にも来るだろう。トルグ」
ミトルが言った。
「今夜?」
そういえば、次の集会のことを聞いていなかった。今夜だったのか。
「デュレン教授も来るそうだよ」
「デュレン教授が」
「きみに興味があるらしいよ。あの人は〈力〉のある者が大好きなんだ」
「ぼくなんて……」
つぶやきながら思い出した。デュレンは自分が認めた学生しか教室に入れないとリイシャが言っていたっけ。
「ミトルさんは、ずっとデュレン教授のもとで?」
「うん。これでも覚えめでたい時があったんだけどね。リイシャには負けてしまったな」
トルグは、はっとした。
「リイシャを知っているんですか?」
「わたしが卒業するまぎわに顔を見せるようになった」
ミトルはにっこりと笑った。
「きみのことも聞いていたよ。弟のように可愛い同期がいるって」
弟か。
トルグは心の中でため息をつき、解剖道具を金盆に並べた。
目を伏せたまま、なにげない口調で、
「リイシャは魔法使いになったでしょうか」
「そりゃあね。昔なら必要以上の〈力〉を持つ者は嫌われたが、デュレン教授が〈塔〉に入った後だ。よほどのことがない限り、認可されないなんてことはないと思うよ」
ミトルはリイシャがアイン・オソに残ると言っていたことを知らないのだ。リイシャが顔を見せないよほどのこととは何なのだろう。リイシャに何が起こっているのだろう。
リイシャは教授たちの中にいた。
では、リイシャが成り代わった教授はどこへ?
「おやおや」
窓の方を向いたミトルの声で我にかえった。
豚の非難がましい鳴き声が聞こえてくる。
係の生徒が、二人がかりで豚を引いて来るのが見えた。運命を悟ってか、豚は短い足をばたつかせて必死に逃げようとしている。
トルグはあわてて彼らを手伝いに駆け出した。
三日月は、冬の冷気に研ぎ澄まされたように塔の上で冴え冴えと耀いていた。
見上げるトルグの息も白く、夜空に浮かび、かき消えた。
その夜、トルグは一人で〈塔〉に入った。玄関広間を横切り、塔の真下の部屋へ。
部屋の中は皎々と明るかったが、まだ誰も来ていない。トルグは首をかしげた。時間通りに来たはずなのだが。
トルグがテーブルの前で立ち尽くしていると、向こう側の扉が開いた。
トルグはぎょっとした。そこに扉があるとは思わなかったから。
現れたのは、頭巾を目深に被った魔法使いだった。
デュレン?
いや、彼はもっと背が高い。テーブルを挟んでトルグと向き合ったのは、どちらかというと小柄な魔法使い。
魔法使いは、しばし無言で立っていた。やがて、
「また会えたな、トルグ」
魔法使いは言った。
トルグは、はっと息を呑んだ。聴き憶えのある声だ。
まさか。
「ウゲンさん……」
ウゲンは頭巾をはずした。
なじみある皮肉っぽい顔が露わになった。
「と言っても、おれはきみが塔に上った時もそこにいた。きみは、リイシャばかりに気を取られていたが」
「なぜ……」
「数あわせさ。教授は七人必要だが、今は四人しかいない。いつもは人形を三体使っている。あの時だけは、おれとリイシャが紛れていた。他ならぬきみの試験だからな」
教授は四人。
三体の人形。
リイシャとウゲン。
トルグは、必死で頭の中を整理づけようとした。いったい、何が起きているのか。
「他の三人の教授は?」
「保守派だった。デュレン教授には必要のない人たちだ」
「必要のない……」
「ランフェル先生の傍で眠っているだろう」
「そんな!」
トルグは愕然とした。
信じられないことだ。デュレンが教授になった時点で保守派は少なくなったのに、彼はその存在さえ無くしてしまったと?
「他の教授たちは、認めているんですか?」
「デュレン教授の〈力〉には背けない。自分たちの身も危うくなるからな。息を潜めているのさ」
アイン・オソは力ある魔法使いの芽を摘み取っていたはずだ。それほど強い力を持っているデュレンが、なぜ魔法使いに認可されたのだろう。
トルグは思った。
魔法使いになってからでも、〈力〉が成長する者はいるとエチューダが言っていたが、デュレンはまさしくそれなのか。
そして、ランフェルを殺したのも。
トルグは、いつまにかテーブルの上に両手をついて身体をささえていた。
「教えて下さい、ウゲンさん」
ようやくトルグは声にした。
「なぜ、こんなことに」
「変革だ。アイン・オソは変わらなければならない。魔法使いの〈力〉は、あるがままに使うべきなんだ」
「でも、ウゲンさんはランフェル先生の学生だった」
「すべてを知るまではな、トルグ。アイン・オソは魔法使いの〈力〉を抑制していただけじゃない。並以上の〈力〉がある者を間引いてきたんだ。デュレン教授がいなければ、たぶんおれも」
「だからって、ランフェル先生たちを──」
「これまでアイン・オソがやって来たことと同じさ。学生の中には、教授たちが封じきれないほどの〈力〉を持った者たちもいた。そうとわかった彼らは、どうなったと思う?」
「どう?」
「殺されたんだ。なにも知らないでいるうちに」
トルグは絶句した。
目を見開いて、ウゲンを見つめた。
ウゲンはひるむことなくトルグを見返した。
「アイン・オソがしてきたことは許せない。おれは、ここに残ることにした。だが、教師には向いていないからな。こうして〈塔〉に置いてもらっている」
トルグは、テーブルの木目に視線を落とした。ランフェルが生きていた時のことが、とりとめもなく思い出された。
「ハルトさんやファロムさんは」
トルグはつぶやいた。
「どうしているでしょう」
ウゲンは、表情も変えずに言った。
「ハルトは魔法使いに認可されなかった。ランフェル先生の影響が強すぎたんだ。ファロムの力は可もなく不可もない。今ごろは故郷で良い魔法使いになっているだろう。何も知らなくていい人間もいる」
トルグは弱々しくうなずいた。
自分も何も知らないでいたかった。
だがリイシャのために、知らずにはいられなかった。
ウゲンの言っていることは本当だとすれば、アイン・オソの行為は許されることではない。ただ同時に、デュレンが正しいとも思えない。リイシャはすべてを認めた上で、デュレンのもとにいるのだろうか。
「ついてきてくれ」
ウゲンは言った。
「リイシャのためだ」
トルグは、弾かれたようにウゲンを見た。ウゲンはかすかな笑みを浮かべて、背を向けた。トルグが後につづくことが当然のように振り向きもせず、入ってきた扉に向かった。
「どういうことです、ウゲンさん」
ウゲンは答えなかった。
トルグはためらい、しかしウゲンに従った。
扉の下に階段があった。部屋の明かりがとどいているのは数段までで、あとは暗い影が待ち受けている。
ウゲンは両手のひらを合わせて、小さな火球を作った。それは二人の前にふわふわと浮いて、扉を閉めても闇の中を照らし出した。
急角度の階段を下りると、天井の低い長い通路が枝分かれしながら伸びていた。辿っていく地下の空間は、塔の基部よりも広そうだ。大図書館のように、長い年月のうちにしだいに拡張されてきたのかもしれない。
歴代教授たちの霊廟や、対岸に渡る秘密の通路もこのどこかにあるのだろうか。
ウゲンは無言で歩きつづけた。リイシャの名を出せば、トルグが従うと思っているのだ。
いっそ、このまま引き返そうか。怒りすら覚えながらトルグは考えた。しかし、彼について行くしかリイシャのことを知る方法はない。
壁は石を組んだものだったが、床は粘土質の土で、二人の足音を吸い込んだ。幾度か通路を曲がり、さらに二回階段をおりた。
ウゲンは突きあたりの壁の前でぴたりと立ち止まった。
最初のコメントを投稿しよう!