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 トルグは、カーラが使っている部屋にもう一つ寝台を置いた。  もともと寝るだけの部屋だったから、狭くなってもカーラに不満はなさそうだった。それどころか、新しい相棒に興味津々のようだ。 「ぼくより年下の子ははじめてだよ」  目をかがやかせてカーラは言った。 「ああ、そうだね」  カーラはアイン・オソで最年少だったのだ。 「弟って、どんな感じなんだろう。兄ちゃんばっかりだったから、わからない」 「わたしも末っ子だったよ、カーラ」  トルグは微笑んだ。 「弟が欲しいといつも思っていた」  夏の終わり、フォーヴァはミトルに連れられてやって来た。  さらさらした黒い髪と薄い灰色の瞳、手足の細いひょろりとした少年だった。  家に入ると、ミトルの脇に身動きもせず立っている。 「よろしく、フォーヴァ」  トルグは屈み込んでフォーヴァを見つめた。  フォーヴァはゆっくりトルグを見返した。その透明に近い目は、何を映しているかわからなかった。表情がいっさい変わらない。  はじめて会った時のカーラは歳より大人びて見えたが、フォーヴァにはそれを超した老人のような諦観がある。 「おいでよ」  紹介がすむと、カーラが待ちきれないようにフォーヴァの手を取った。 「ぼくたちの部屋はこっちだよ」  フォーヴァはカーラに引っ張られるまま、扉の向こうに行ってしまった。 「あんな子だ」  ため息まじりにミトルは言った。 「言われたことは理解しているが、反応が薄い。一人でなんでもできるが、自分からは決して行動を起こさない。生きていること自体に興味がなさそうに思えてくる」  トルグは考え込んだ。 「〈力〉はたいしたものですね」 「そうだ。あれだけのものを、ちゃんと押さえ込んでいる。普通の子供なら使いたくなってしまうだろうに」 「ロイダが抑制させてきたのでしょうか」 「感情までもいっしょに? だとしたら頂けない育て方だ」  トルグはうなずいた。  フォーヴァの仮面のような顔に、表情を与えてやりたいと思う。  向こうからはカーラの声ばかりが聞こえてきた。ここでの暮らし方を教えているようだ。 「カーラが良い影響を与えてくれればいいのですが」 「まったくだ」  ミトルは肩をすくめた。 「フォーヴァは魔法使いになるより先に、人間になる必要がある。やっかいごとばかり押しつけて申し訳ないな、トルグ」    三人での生活が始まった。  朝寝坊のカーラとは違い、フォーヴァはトルグと同じように夜明けとともに起きた。 「おはよう、フォーヴァ」  フォーヴァはトルグにこくりとうなずく。 「ちゃんと返事をしてごらん。朝の空気が声といっしょに身体に入るよ。いい気持ちになるよ」  フォーヴァは抑揚のない声で、つぶやくように、 「おはよう」 「うん」  トルグは微笑んだ。 「井戸で顔を洗っておいで。朝ご飯を作ろう」  フォーヴァは言われた通りにすると、台所の隅に立った。動かず、じっとしている。 「その板の上で、チーズを切ってくれるかな、フォーヴァ。麦粥に入れるから溶けやすいようにね」  フォーヴァはうなずきかけ、声を出した。 「はい」  トルグは、思わずフォーヴァの頭を撫でた。 「いい子だ」  カーラももぞもぞと起きてきた。 「おはよう、みんな。フォーヴァは早起きだね」  フォーヴァはチーズの塊を切りながら目も上げず、   「おはよう。うん」  カーラはチーズを見て目を丸くした。 「すごいや、トルグ。フォーヴァはチーズを全部同じ薄さに切っているよ」  トルグが見ると、透けるほどに薄いチーズが幾枚も積み重なっている。なるほど、これならすぐ溶けるだろう。  トルグは笑を浮かべた。  フォーヴァは愛しいほど素直で、几帳面だ。 「そのくらいでいいかな、フォーヴァ。あとは蜂蜜を入れるんだ」  日々は続いた。  トルグはフォーヴァにもよけいな〈力〉は使わないことを約束させたが、フォーヴァは最初から自分の〈力〉には無関心だった。  カーラは、なにくれとなくフォーヴァの面倒をみてやっていた。フォーヴァは小さな子供のようにカーラに従っている。  しかし、だんだんとカーラも根を上げてきたようだ。 「トルグ、フォーヴァは家でも外でも何も話さないよ」 「話しかければ応えるよ」 「鸚鵡返しか気のない返事だけ。ぼくのことが嫌いなのかな」 「そんなことはない。いつもきみの側にいるだろう」 「でも、顔を見ても何を考えているかわからない。楽しいのか、つまらないのか。怒っているのか、悲しいのか。フォーヴァがいっしょだと、誰も近づいて来ないんだ」  確かに予備舎の生徒たちは、フォーヴァを奇妙な子と思っているようで、遠巻きにしているばかりだった。働く大人たちも、時おりひそひそとフォーヴァのことをささやき交わしている。  気に病んでいるのはカーラばかりで、フォーヴァは淡々としたものだった。 「みんなが何と言おうと、ぼくはフォーヴァが大事だよ。でも、フォーヴァはぼくやトルグのことをどう思っているんだろう」  「わたしたちと同じじゃないのかな、カーラ。ただ、気持ちを表せないだけなんだ」  カーラは頬をふくらませた。 「損な性分だよね」  秋も深まってきた夜、子供たちが寝室に入った後だった。  トルグは居間で本を読んでいた。  寝室で、どさりと重い音がした。何かを叩きつけたような音だ。  トルグは驚いて倚子から立ち上がった。と同時に、フォーヴァが寝室から飛び出して来た。 「トルグ」  かすれた声で言い、トルグの腕をぐいと引っ張る。  トルグはフォーヴァに手を引かれたまま寝室に入った。  寝台と寝台の間の狭い床に、カーラが仰向けに倒れていた。目を見開き、歯を食いしばったままの表情は凍りついていた。  トルグはカーラを抱え上げ、ぎょっとした。  心臓が止まっている。  寝台に横たえ、その胸に手をあてがった。〈力〉でゆっくりと心臓を揺り動かす。  ややあって、カーラの心臓は自分の動きを取り戻した。カーラは大きくあえぎ、目を閉じた。  トルグはふうとひと息ついた。  カーラは意識を失ったままだ。 「ぼくが悪い」  フォーヴァの顔は、カーラと同じくらい青ざめていた。 「ぼくのせいだ」 「どうして?」  フォーヴァは黙り込んだ。その場に立ったまま、身を硬くする。  トルグはフォーヴァを引き寄せた。肩を手を回し、寝台の上に並んで座った。フォーヴァの身体が小刻みに震えていた。表情は変わらないものの、彼がここまで感情を表したのははじめてだった。 「〈力〉を放ったのか」  フォーヴァは、こくりとうなずいた。 「カーラ、大丈夫?」 「じきにもとに戻るよ」 「起きたらあやまる」 「そうしなさい」 「トルグにもあやまる。ぼくは〈力〉を使った。ごめんなさい」 「うん」  フォーヴァが一方的にしたとは考えられなかった。カーラがフォーヴァにそうさせたのか。フォーヴァは語ろうとせず、カーラはぐったりと横たわったままだ。カーラの回復を待つしかなかった。  フォーヴァは身動きもせず、じっとカーラを見つめている。カーラの浅かった呼吸は、しだいに普通の寝息になっていた。顔もうっすらと赤みさしてきたようだ。   外では、虫たちがしきりにすだいていた。夜は更けていく。 「きみはもう寝なさい。カーラはわたしが見ているよ」  フォーヴァはかぶりを振り、ますます身体をこわばらせた。  トルグはフォーヴァの頭に手を触れ、そっと〈力〉を使った。フォーヴァはかくりと首を垂れ、トルグにもたれかかった。  カーラが気づいたのは夜明け近くだった。目を開けて、きょとんとあたりを見まわした。 「トルグ」 「具合はどうだい? カーラ」 「なんともないよ。フォーヴァは?」  蝋燭の明かりの中で、トルグの膝枕で眠るフォーヴァを見つけ、カーラは安心したようにため息をついた。 「何があったんだ? カーラ」 「ぼくが悪いんだ」 「フォーヴァも自分のせいだと言っていた」 「違う。ぼくがフォーヴァの心に入り込んだんだ」 「予備舎に入るまでは、よけいな〈力〉を使ってはいけないと言っていたはずだ。きみにも、フォーヴァにも」 「ごめんなさい」  カーラは顔をゆがめた。 「やっちゃいけないことだとは思ったけど、フォーヴァが何を考えているか知りたかった」 「フォーヴァに拒まれたのか?」 「それも違う。フォーヴァの心には、何もなかった。それでもぼくは、もっと入り込もうとした。奥が深すぎて、暗い深い穴の中に吸い込まれていくようだった。ぼくはどこまでも落ちて、落ちて」  カーラはぞくりと身を震わせた。 「フォーヴァがはじき飛ばしてくれなかったら、ここに帰って来られなかったと思う。フォーヴァが守ってくれたんだ」  フォーヴァがトルグの言いつけを守り通し、〈力〉を使っていなかったら、カーラの精神はフォーヴァの中に呑み込まれたまま、空の肉体しか残らなかったわけなのか。 「フォーヴァは必死でわたしをここに連れてきた」  トルグはフォーヴァの柔らかい髪の毛を無意識に撫でていた。 「フォーヴァにも感情はあるよ。きみのことを、本当に心配していた。あんなフォーヴァを見たのは、はじめてだ」 「そう」 「きみを助けるためにわたしの言いつけにそむいて〈力〉を使ったんだ。心の中に、何もないわけじゃない」 「うん。たぶん心の底のもっともっと奥にフォーヴァの思いはあるんだ。誰も踏み込んじゃいけないところに」  カーラは、天井を見つめてため息をついた。 「ぼくが馬鹿なことをした」 「急ぎすぎただけだよ、カーラ。時間がたてば、もっとわかりあえるようになる。きみがフォーヴァを大事に思っているのと同じくらいに、フォーヴァにとってきみは大切な存在だ」 「ほんとうに?」  カーラは寝返りをうってフォーヴァを見た。 「ああ。本当の友達というのは、言葉がなくとも心が通じ合うものだろう。きみたちは、そうなれるよ」 「だったらいいけど」  カーラはつぶやいた。 「トルグには、そんな友達がいた?」  トルグは、眉を上げた。  鈍い痛みを心に感じた。  リイシャは、自分を友達とみなしてくれていただろうか。  トルグにあったのは、一方的な憧れだった。リイシャを追い求めながら、彼女のことは何もわからなかった。最後まで、わからないままだった。  いま。彼女はどうしているのか。 「いいや」  トルグは言った。 「だから、きみたちが羨ましいよ」
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