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5
トルグは声の方に手を伸ばした。
「リイシャ!」
しかし、両手はむなしく空を彷徨うばかりだった。
「いったい、どこにいるの?」
「寮、だわ」
声は遠ざかり、
「でも、なにか違う。ここにはわたししかいない」
「ぼくが見えないの」
「見えない。声だけよ」
「行っちゃだめだ、リイシャ」
「わたしは動いていない。遠ざかるのはあなたの方」
声は足下に移動した。
「ここは、違う空間なのよ。あなたのいる場所と、接点が微妙に移ろっている」
リイシャは言った。
「なぜかはわからないけど、目ざめたらここだったの。あなたなら、わたしの声を受け取ってくれると思った」
「うん」
リイシャが、まず自分のことを考えてくれたのは嬉しかった。
リイシャのために、なんとかしなければ。
時空を隔てた向こうにいる彼女を、こちらに引き戻さなければ。
トルグはあたりを見まわした。リイシャの気配が、一番強く感じられる場所を探した。いまは、自習室の扉の近く?
〈力〉をこめて、そこを透かし見ようとした。
「トルグ?」
「空間を破けないかどうかやってみてる。リイシャも心を伸ばして」
トルグは自分の〈力〉を奮い立たせた。これまでにやったことがないほどの、大きな〈力〉を発動した。
こめかみがずきずきしてきたが、リイシャの存在は濃くなってきた。向こう側で発せられるリイシャの〈力〉が感じられた。
廊下の壁が、歪んできたように思われた。実態が薄れ、紗のようなものとなり、彼方に小さくリイシャが見えた。
「リイシャ」
トルグは叫んだ。
白い寝間着を着たきりのリイシャの姿はみるみる近くなった。トルグは手を差し伸べた。同じく伸ばされた彼女の手を、しっかり握りしめた。
こちら側に、ぐいと引っ張る。
はずだった。
が、トルグは頭から飛び込むようにリイシャの方へ倒れ込んだ。
二人はそろって床に身体を打ちつけた。
「トルグ!」
一瞬何が起きたのかわからなかった。
リイシャがトルグの顔をのぞき込んでいた。
「大丈夫?」
トルグはあわててリイシャから身体を離した。
リイシャをまじまじと見つめ返す。
自分はリイシャを捜し当てた。目の前にいるのは、彼女にまぎれもない。
トルグは視線をあたりに彷徨わせた。寮の階段近くの廊下だ。しかし、妙なよそよそしさがあった。窓からは、陽の光が射し込んでいない。窓の向こうに青空はなく、白い霧のようなものがたちこめている。
昼間に寮が空なのはいつものことだが、教室の方の人の気配も一切感じられない。がらんとした空虚につつまれている。
引き寄せられたのは、トルグの方だった。
リイシャがいる空間に、自分も入り込んでしまったのだ。
「ごめん、リイシャ」
トルグはつぶやいた。
「ぼくの〈力〉が足りなかったんだ。誰か助けを呼べばよかった」
自分の力もわきまえず、夢中で愚かなことをしてしまった。リイシャを早く助けたい一心だったとはいえ、もっと冷静になるべきだった。
「謝るのは、わたしのほうだわ」
リイシャは言った。
「あなたを巻き込んでしまった」
トルグは大きく首を振った。
「ちがう、ぼくが勝手に」
リイシャは優しくトルグの手を取った。
「でも、あなたがいて心強いわ、トルグ。二人でなら、なんとかなる。ここから抜け出す方法を考えましょう」
「ラウド先生が調べてくれているよ」
「こんどは先生に呼びかけてみる。あなたも手伝って」
トルグは小さく頷いた。
リイシャの声のことをはじめからラウドに伝えればよかったのだ。
だが、なにか嫌だった。自分一人でリイシャを見つけ出したかった。
リイシャは立ち上がった。
「ここは予備舎とすっかり同じよ。ただ、生きているものがいないだけ」
「玄関の外は?」
「玄関は開かない」
トルグは階段を下り、玄関の扉に行ってみた。確かに、いくら引いても玄関はびくともしない。壁と一つになってしまったようだ。
「執務室に行ってみましょう」
二人は再び階段を上り、学舎の翼に入った。
ラウドの執務室は三階の奥にある。教室には誰もいない。階段にも廊下にも、自分たちの足音すら響かない。
「いったい、ここは……」
「わからない」
二人の声も自然に低くなった。
「建物の抜け殻みたいね。階段のへこみまで同じだわ。でも、からっぽだけとも違う。なにかとても嫌な気分なのよ」
トルグはうなずいた。
なぜこんな世界が存在するのだろう。たとえリイシャと二人きりでも、長くいるのは耐えられない。
しんと籠もった静寂そのものが、ねっとりした悪意を含んでいるようなのだ。それは、トルグたちに直接染みこみ、心をざわつかせた。
ラウドに呼びかけようにも、集中できなかった。リイシャの声が、よく自分にとどいたものだと思う。それだけリイシャの〈力〉が強いと言うことか。
トルグとリイシャは自然に手を繋いでいた。執務室に近づき、足を止めた。
扉の前の廊下に、黒い染みがある。扉の幅くらいの大きなもの。元の空間にはなかったものだ。
染みは円形で、黒々としていた。よく見ると、染みというよりも、ぽっかりと開いた穴だ。縁のところさえ光を寄せつけず、底知れぬ闇をたたえている。床ではなく、空間自体に穿たれた虚無のように。
それは、動いていた。ゆっくりとこちらの方に向かってきた。
トルグは息を呑んだ。
「なに?」
「わからない」
リイシャはトルグの手をとってかけ出した。
「逃げましょう」
「リイシャ、あれはまるで──」
「〈アンシュの穴〉……」
「〈穴〉が動くなんて」
「アンシュの穴は、急に現れたり消えたりするというわ。動きもするんでしょうよ」
リイシャは乱れた髪の毛をかき上げ、あたりを見まわした。
「そう、突然現れるかもしれないわ。気をつけて、トルグ」
「うん」
「ここは、嫌なものが満ちているわ。それが〈穴〉を呼び寄せたのか、〈穴〉がここを創ったのか」
アンシュの穴は、その昔の魔法使いたちとアンシュの戦いの痕跡だった。〈力〉と〈力〉のぶつかり合いが空間に穴を穿ったという。
しかし、〈穴〉についてはわからないことが多すぎた。〈穴〉は、すべてのものを呑み込む底なしの無だとも、別の空間に繋がっているとも言われているが、それを調べる術はない。〈穴〉をのぞき込んだ魔法使いはアンシュの呪いに囚われ、自分を見失ってしまうのだ。廃人となるか、アンシュの僕に化すと聞いていた。
だから、〈穴〉には近づかないことが賢明だ。
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