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 トルグは声の方に手を伸ばした。 「リイシャ!」  しかし、両手はむなしく空を彷徨うばかりだった。 「いったい、どこにいるの?」 「寮、だわ」  声は遠ざかり、 「でも、なにか違う。ここにはわたししかいない」 「ぼくが見えないの」 「見えない。声だけよ」 「行っちゃだめだ、リイシャ」 「わたしは動いていない。遠ざかるのはあなたの方」  声は足下に移動した。 「ここは、違う空間なのよ。あなたのいる場所と、接点が微妙に移ろっている」  リイシャは言った。 「なぜかはわからないけど、目ざめたらここだったの。あなたなら、わたしの声を受け取ってくれると思った」 「うん」  リイシャが、まず自分のことを考えてくれたのは嬉しかった。  リイシャのために、なんとかしなければ。  時空を隔てた向こうにいる彼女を、こちらに引き戻さなければ。  トルグはあたりを見まわした。リイシャの気配が、一番強く感じられる場所を探した。いまは、自習室の扉の近く?  〈力〉をこめて、そこを透かし見ようとした。 「トルグ?」 「空間を破けないかどうかやってみてる。リイシャも心を伸ばして」  トルグは自分の〈力〉を奮い立たせた。これまでにやったことがないほどの、大きな〈力〉を発動した。  こめかみがずきずきしてきたが、リイシャの存在は濃くなってきた。向こう側で発せられるリイシャの〈力〉が感じられた。  廊下の壁が、歪んできたように思われた。実態が薄れ、紗のようなものとなり、彼方に小さくリイシャが見えた。 「リイシャ」  トルグは叫んだ。  白い寝間着を着たきりのリイシャの姿はみるみる近くなった。トルグは手を差し伸べた。同じく伸ばされた彼女の手を、しっかり握りしめた。  こちら側に、ぐいと引っ張る。  はずだった。  が、トルグは頭から飛び込むようにリイシャの方へ倒れ込んだ。  二人はそろって床に身体を打ちつけた。 「トルグ!」  一瞬何が起きたのかわからなかった。  リイシャがトルグの顔をのぞき込んでいた。 「大丈夫?」  トルグはあわててリイシャから身体を離した。  リイシャをまじまじと見つめ返す。   自分はリイシャを捜し当てた。目の前にいるのは、彼女にまぎれもない。  トルグは視線をあたりに彷徨わせた。寮の階段近くの廊下だ。しかし、妙なよそよそしさがあった。窓からは、陽の光が射し込んでいない。窓の向こうに青空はなく、白い霧のようなものがたちこめている。  昼間に寮が空なのはいつものことだが、教室の方の人の気配も一切感じられない。がらんとした空虚につつまれている。  引き寄せられたのは、トルグの方だった。  リイシャがいる空間に、自分も入り込んでしまったのだ。 「ごめん、リイシャ」  トルグはつぶやいた。 「ぼくの〈力〉が足りなかったんだ。誰か助けを呼べばよかった」  自分の力もわきまえず、夢中で愚かなことをしてしまった。リイシャを早く助けたい一心だったとはいえ、もっと冷静になるべきだった。 「謝るのは、わたしのほうだわ」  リイシャは言った。 「あなたを巻き込んでしまった」  トルグは大きく首を振った。 「ちがう、ぼくが勝手に」  リイシャは優しくトルグの手を取った。 「でも、あなたがいて心強いわ、トルグ。二人でなら、なんとかなる。ここから抜け出す方法を考えましょう」 「ラウド先生が調べてくれているよ」 「こんどは先生に呼びかけてみる。あなたも手伝って」  トルグは小さく頷いた。  リイシャの声のことをはじめからラウドに伝えればよかったのだ。  だが、なにか嫌だった。自分一人でリイシャを見つけ出したかった。  リイシャは立ち上がった。 「ここは予備舎とすっかり同じよ。ただ、生きているものがいないだけ」 「玄関の外は?」 「玄関は開かない」  トルグは階段を下り、玄関の扉に行ってみた。確かに、いくら引いても玄関はびくともしない。壁と一つになってしまったようだ。 「執務室に行ってみましょう」  二人は再び階段を上り、学舎の翼に入った。  ラウドの執務室は三階の奥にある。教室には誰もいない。階段にも廊下にも、自分たちの足音すら響かない。 「いったい、ここは……」 「わからない」  二人の声も自然に低くなった。 「建物の抜け殻みたいね。階段のへこみまで同じだわ。でも、からっぽだけとも違う。なにかとても嫌な気分なのよ」  トルグはうなずいた。  なぜこんな世界が存在するのだろう。たとえリイシャと二人きりでも、長くいるのは耐えられない。  しんと籠もった静寂そのものが、ねっとりした悪意を含んでいるようなのだ。それは、トルグたちに直接染みこみ、心をざわつかせた。  ラウドに呼びかけようにも、集中できなかった。リイシャの声が、よく自分にとどいたものだと思う。それだけリイシャの〈力〉が強いと言うことか。  トルグとリイシャは自然に手を繋いでいた。執務室に近づき、足を止めた。  扉の前の廊下に、黒い染みがある。扉の幅くらいの大きなもの。元の空間にはなかったものだ。  染みは円形で、黒々としていた。よく見ると、染みというよりも、ぽっかりと開いた穴だ。縁のところさえ光を寄せつけず、底知れぬ闇をたたえている。床ではなく、空間自体に穿たれた虚無のように。  それは、動いていた。ゆっくりとこちらの方に向かってきた。  トルグは息を呑んだ。 「なに?」 「わからない」   リイシャはトルグの手をとってかけ出した。 「逃げましょう」 「リイシャ、あれはまるで──」 「〈アンシュの穴〉……」 「〈穴〉が動くなんて」 「アンシュの穴は、急に現れたり消えたりするというわ。動きもするんでしょうよ」  リイシャは乱れた髪の毛をかき上げ、あたりを見まわした。 「そう、突然現れるかもしれないわ。気をつけて、トルグ」 「うん」 「ここは、嫌なものが満ちているわ。それが〈穴〉を呼び寄せたのか、〈穴〉がここを創ったのか」  アンシュの穴は、その昔の魔法使いたちとアンシュの戦いの痕跡だった。〈力〉と〈力〉のぶつかり合いが空間に穴を穿ったという。  しかし、〈穴〉についてはわからないことが多すぎた。〈穴〉は、すべてのものを呑み込む底なしの無だとも、別の空間に繋がっているとも言われているが、それを調べる術はない。〈穴〉をのぞき込んだ魔法使いはアンシュの呪いに囚われ、自分を見失ってしまうのだ。廃人となるか、アンシュの僕に化すと聞いていた。  だから、〈穴〉には近づかないことが賢明だ。
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