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二人は再び階段を駆け下り、玄関広間に立った。ここなら両翼と階段の上を見回せる。
「ラウド先生を呼び続けて、トルグ」
「呼んでいるよ」
「わたしに波長をあわせて」
トルグは言われた通り、リイシャの呼びかけに〈力〉を添わせた。この異空間から、ラウドのもとに声をとどけなくては。
ラウドも自分たちを捜しているはずだ。トルグがリイシャの声を捉えたように、ラウドも気づいてくれることを願うしかない。
二人は呼び続けた。
トルグは自分たちの〈力〉が一つになるのを感じた。こんな時ながら、不思議な喜びが身体を奔った。
「ラウド先生!」
リイシャが明るい声を上げた。
トルグの思いは振り切られた。
はっきりと、トルグもラウドの気配を捉えた。ラウドが自分たちを見つけてくれたのだ。
その時、階段に黒いものが見えた。トルグはぎょっとした。
階段の輪郭を保ったまま、〈穴〉が中央階段を下りてくる。しずしずと、暗黒の影さながらに。
いや、影は光を必要とするが、それは独自に存在する。
光が生まれる前の底なしの虚無。
トルグは、〈穴〉から目を離すことが出来なくなった。どこまでも引き込まれていきそうだった。それは、悪いことではないような気がする。
〈穴〉は魅力的だ。自分に〈力〉を与えてくれるだろう。
なぜだかトルグは確信した。
本舎に行ける〈力〉。魔法使いになれる〈力〉。リイシャに取り残されることもなく。
一歩二歩とトルグは階段に近づいて行った。
「トルグ!」
リイシャがトルグの腕を引いたが、トルグは見向きもしなかった。
さらに一歩。
突然、視界を遮るものにぶつかった。トルグは、我にかえって立ち止まった。瞬きして目をあげると、ラウドがいつもの淡々とした表情で自分を見下ろしている。
「ラウド先生」
リイシャが安堵のため息をついた。
「来てくれたんですね」
ラウドはトルグの両肩に手を置いて向きを変えた。
「おかげで、ここをようやく捜し当てた」
「なぜこんなところが? アンシュの穴のせい?」
「あれはアンシュの穴とは言えない」
ラウドは振り返った。〈穴〉は、いまや階段をほとんど降りきろうとしていた。
「アンシュの呪いから派生したものではあるだろうが、ささやかな力しかない。この空間を創り、誰かを閉じ込めるくらいしか」
「では、なに?」
「長きに渡って鬱積した思いだ」
ラウドの声は暗かった。
「アイン・オソが出来て以来、魔法使いになれずに去っていった者たちが残した無念、自分よりも早く本舎に行ってしまう者への嫉妬」
トルグは、はっとした。リイシャが本舎へ行くと知った時のみなの目を思い出した。
羨望と嫉み──たぶん、トルグにしても。
本舎に行けずアイン・オソを去った者の思いはそれ以上に強いだろう。幾百、いや幾千もの失意の思い。
そういった感情が何百年にも渡って積もりに積もり、どこかでアンシュの呪いの欠片と結びついてこの空間を作り出してしまったのだ。
「ずいぶん前から、これは存在していた」
「他にも、引きずり込まれた人がいたんですね」
「数年おきに、これまで三人。本舎に行く直前に行方知れずになった」
「その人たちは?」
ラウドは首を振った。
「たぶん、喰われたと思う。こいつに」
トルグとリイシャは、目を見開いた。
ラウドは〈穴〉に向き直った。
「どうすればここを見出せるのか、わからなかった。きみたちのおかげで辿り着いた」
「封じ込めなければいけないわ。こんな空間」
「いや」
ラウドは首を振った。
「消滅させる」
〈穴〉は床に辿り着き、じわじわとこちらの足下に近づこうとしていた。ラウドは、〈穴〉の傍にひざまずき、〈穴〉に両手をかざした。
彼の手は、するりと手首のところまで〈穴〉に入った。
「先生!」
トルグたちは叫んだ。ラウドはかすかに眉を寄せていたが、平然と言った。
「大丈夫だ。もともとこれはわたしの一部だから」
ラウドが言っていることがわからなかった。彼の両手は、すでに肘から下が見えなくなっている。すっぱりと断ち切られたように。
ラウドは半ば目を閉じて、それ以上〈穴〉に引き込まれまいとしているようだった。眉間に皺が寄り、ラウドは歯を食いしばった。浅黒い彼の顔が蒼白になってきた。
「トルグ、〈力〉を」
リイシャがトルグの手をとった。
「先生を手伝うのよ」
リイシャはもう一方の手をラウドの背中においた。
「だめだ」
ラウドは絞り出すように言った。
「やめなさい」
「魔法使いは力を合わせることを禁じられているけど、わたしたちは見習いだから問題はないはずです」
リイシャはきっぱりと言った。
「それに、先生が力尽きたら、わたしたちはここから出られないわ」
ラウドはかすかに頷き、再び〈穴〉に集中した。
リイシャもまた、ラウドと〈穴〉について疑問が渦巻いているに違いない。だが、今はラウドに力を貸すしかないのだ。
たしかに、リイシャと触れ合っていた方が〈力〉の発動は用意だった。リイシャはちゃんと知っている。
リイシャは、トルグにさらなる〈力〉をうながした。トルグは彼女に従い、自分が怖れることなく〈力〉を生み出していることに驚いた。これまでに使ったこともない〈力〉をリイシャを通じてラウドに注ぎ込む。
しだいに、ラウドの腕が上がってきた。と同時に、〈穴〉が明らかに小さくなっていった。
「〈力〉をゆるめないで、トルグ」
リイシャが言った。トルグは頷く余裕もなかった。
ラウドは、ついに両手を引き上げた。〈穴〉は彼の顔ほどの大きさになっていた。
ラウドは深く息を吸い込み、かざしたままの両手のひらをゆっくりと握りしめた。
〈穴〉だったものは、ラウドの手の中に包み込まれるように消えてしまった。
ラウドはそのまま前のめりに倒れた。
「先生!」
ラウドはぴくりともしなかった。
しかし、トルグたちが支え起こそうとした時、ようやく仰向けになり、深く息を吐き出した。
「大丈夫ですか」
「ああ」
ラウドはつぶやいた。
「終わった。これで」
ラウドは目を細め、両手で顔をこすった。階段上の高窓から、陽が射し込んできたのだ。
まわりが、生気を取り戻していた。日常の音が聞こえる。寮の方では昼を前にした厨房の慌ただしさが、学舎からは生徒たちの声、教室や廊下のざわめきが。
トルグたちを閉じ込めていた空間が消えたのだ。
ラウドは、ふらつきながらも立ち上がった。
「着替えて本舎に行くしたくをしなさい、リイシャ」
「何が起きたのか、教えて下さらないのですか、先生」
リイシャはラウドをまっすぐに見つめていた。ラウドはリイシャを見返し、ちょっと息を吐き出してうなずいた。
「本舎に行く前に執務室へ来なさい」
トルグに向き直り、
「きみは教室へ。いろいろすまなかった」
ここから先は、まだ自分が踏み込む領域ではないらしい。
教室を出た生徒たちが、リイシャの姿に気づき、名を呼びながら階段を駆け下りてきた。
トルグは、反対に階段を上って行くラウドの後ろ姿を眺めた。ただでさえ薄い彼の背中は疲れ果て、いまにも折れそうに見えた。
舎監としてのラウドを見たのはそれが最後になった。
その日のうちにラウドは新しい舎監と交代し、予備舎を去ったのだ。
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