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「起きて、俊夫」
「んぅ?」
翌朝、一人暮らしのアパートの自室で目が覚めると、天使がベッドの脇に立って俊夫を覗き込んでいた。どうやら、昨夜の出来事は夢ではなかったらしい。
「まだ7時なんだけど」
「お日様が出てるんだからいっぱい浴びないと。散歩行こう」
「無理。まだ寝る」
「悪行だ。天罰が下るよ」
天罰と言われてしまっては仕方ない。
俊夫はのそっと体を起こすと、歯磨きを済ませ、スウェット姿のままジャンパーだけ羽織って外に出た。
徐々に気温が下がってきているとはいえ、日が出ていればこの時間でも暖かさを感じることができる。小鳥が遠くで泣き、道路は白の絵具を薄く塗ったようにさっぱりして見えた。
「気持ちいいな」
「朝の散歩ほど、気持ち良いものはないんだから」
天使は棒立ちのまま、滑るように俊夫と並んで進んでいる。足音もなく、風でシャツがなびくこともない。
♢
近場の公園に入った。野球少年達がちらほら集まってきているグラウンドの傍を通りながら、天使は俊夫を見て言った。
「俊夫、美奈に謝ろう」
突然出てきた元交際相手の名前に、俊夫は驚かなかった。俊夫の悪行と言われて、真っ先に思い浮かぶのは美奈のことだった。
「俊夫は美奈を傷つけたね。あんなに仲良かったのに」
半年前、俊夫は美奈に一方的な恋愛関係の解消を申し出た。ほとんど何も語らず、美奈の声も聞かず、ただ別れたいと伝えた。美奈はどうにもならないと諦めたのか、最後には目に涙をいっぱい溜めながら、わかった、と言った。
「今更、美奈に合わせる顔なんてないよ」
俊夫は前を向いたまま、言った。
「それでも謝らなきゃ。あんな終わり方はだめだよ」
「せめて、もう少し時間が経ってから」
「今じゃなきゃだめ。早く向き合わないと、神様は待ってくれないよ」
引き下がる天使に、俊夫は苛立ちを覚えた。神様だろうが天使だろうが、一体俊夫の何を分かっているのだろうか。
「お前の言うこと、全部聞く気は無いからな」
「え?」
「美奈のことも、そうじゃないことも、今更どうにもならないことだろ。できるだけ痛くない方法で、殺してくれ」
天使は驚いたように目を見開き、無言のまま前を向いた。
しばらく歩いた後、もう一度俊夫の方を向いたとき、今にも泣きだしそうな表情をしていたので、今度は俊夫が驚いた。
「でも、謝った方がいいって、俊夫も思っているんでしょ?」
「それはまぁ、そうだけど」
「ならやっぱり、向き合わないとだめだ。」
そう言った天使の力強い瞳を、見つめた。何を考えているか未だに分からないが、少なくともこの俊夫の敵ではない、と感じた。同時に、自分を守るような怒りを天使にぶつけたことが、恥ずかしく思えた。
「分かったよ。家に帰ってからな」
♢
帰り道、小さなピンクの靴下が落ちていた。天使は立ち止まり、それをじっと見た。
「どうした?」
「綺麗だなって思って。誰かの落とし物かな」
「そうだろうな」
天使は靴下に手を伸ばしたが、やはり靴下をすり抜けただけだった。
「触ろうと思っても触れないのか?天使なのに」
「現実のものに触るのはすごく大変なんだよ。僕は弱い天使だから、そんなに力を使ったらすぐ疲れて、消えちゃう。俊夫からも見えなくなる」
「天使も案外不便だな」
俊夫は少し迷った末、靴下を拾い上げ、人目に付きそうな柵の上に被せた。
「意味ないかもしれないけど」
「ううん、僕は良いことだと思うよ」
天使は微笑んだ。
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