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侯爵家の領地へ
「可愛い人、目が覚めたかい。」
抱き抱えられていた私が身動きすると、ダミアンはそう言って私のこめかみに口づけた。いつの間にか眠ってしまっていたみたいだ。私は欠伸を噛み殺しながら、揺れる馬車の中で、出立前の昨夜の事を思い出していた。
結局あの夜以来、昼間に伯爵家に戻る事はあってもダミアンが迎えに来てしまうので、夜はヴォクシー侯爵家に泊まっている。
ダミアン曰く、あのジョバンニ様の様な男の考える事は用心しても仕切れないのだと“私の身の危険から守るため”侯爵家で私の身を預かるとの事だったけれど、実際は単に一緒に過ごすための言い訳かもしれない。
だって昨夜だって随分眠らせてくれなかったわ。この分では、私は結婚式の前に孕んでしまいそう。
我が家の家令やメアリは目を泳がせて、お父様である旦那様が納得なさっているのならと渋々見逃してくれているのだ。
勿論、ダミアンは抜け目無く、あの結ばれた初めての初夜の次の日には、我が家の領地へと結婚の申し込みと、今回の複雑な事情を踏まえて、私の身の安全第一と話をつけてきてしまった。
驚きと戸惑い、心配を載せたお父様からの手紙に、私も慌てて二人の真っ直ぐな気持ちの結果なのだと返事を返す羽目になった。近いうちにお父様と弟が上京する事になっていて、それはそれで二人の顔を見るのが楽しみだった。
「クレア、あと半刻ほどでヴォクシー家の領地に到着する。侯爵家で良かったのは、それほど王都と領地が離れていない事だな。お陰で君もひと眠りすれば到着だ。」
そう言って馬車の窓から景色を見回すダミアンは、どこかしら緊張を滲ませている気がする。私はダミアンの手を握って見上げた。
「ダミアン?」
ダミアンは私を見下ろすと、唇に触れる口づけをして苦笑した。
「私は、姉のフェリスカが亡くなってから、母上と碌な会話をしてこなかったのだ。母上も神経症を患って、自分のことで精一杯で私を省みることもなかったのだから余計だが。
だから、今さら何を話すべきかなど私にはよくわからない。だから、いつも母上に会う事は気が重いばかりでね。」
私はダミアンもまた、少年の頃に心に傷を負ってそこから抜け出せていないのだと、そのしかめた顔を見ながら思った。私がまだ生きているダミアンのお母様を大事にするように言うのは簡単だけれど、ニ人の間には私にはわからない複雑な感情が横たわっているのだわ。
「心はそんなに簡単に割り切れるものでありませんわ。まして、大切な人なら余計に。でも私、侯爵夫人にお会いするのを楽しみにしてるんですの。あの中庭をお姉様のために作らせたのは侯爵夫人なんでしょう?
あの美しい中庭を見ると、いつも心が安らぐんですの。そういえば、初めてあの中庭を開けてくださった時、ポケットから鍵を取り出したでしょう?いつもあんな大きな鍵を持ち歩いてるんですの?」
私がそう言ってダミアンの厳しい顔を見上げると、ダミアンは少し赤くなって顔を背けた。
「…あの時、私は書斎から庭園を見下ろしていたんだ。クレアが中庭のほうに歩いて行くのを見て、無意識に引き出しから鍵を取り出して持ち出したんだ。もう何年もその鍵のことも忘れていたというのに。
あの時から、既に私は君を特別扱いしていたのかもしれないね。案の定、君は中庭をひどく気にいって、私は過去に向き合うことになった。あれは私の始まりの日だったんだ。」
私はダミアンもまた侯爵夫人と、もっと歩み寄りたいと思っているのだと感じた。この間見せてくれた夫人からの手紙は、遠慮がちではあったものの、ダミアンへの愛情に溢れたものだった。
結局、ダミアンも侯爵夫人も、どこか不器用な似たもの親子なのだわ。
「ダミアンは、亡き侯爵によく似ていると思っていましたけど、屋敷の侯爵夫人の肖像画を見るとやはり面影がありますわ。だから私お会いするのが楽しみなんです。」
そんなことを話している間に、場所は、急に活気のある街の中へと進んでいた。さすが侯爵家領地のお膝元だけあって、我が家の貧乏伯爵家の領地とは比べようもない大きな街だった。
しばらくすると立派な通用門が現れ、その奥に長い馬車道がスケープを描いて奥へと続いていた。少し色づき始めた紅葉樹が柔らかく枝を伸ばしていており、美しかった。馬車道の奥に現れた白みがかかった石造りの城は、遠目で見ても繊細で美しい。
私がうっとりと見惚れていると、ダミアンは耳のそばで教えてくれた。
「この城は白鳥城と呼ばれているんだ。侯爵家の先祖が美しいものが好きでね。最近のヴォクシー家のイメージではないが、この城は気に入ってるよ。君も気に入ってくれると嬉しいが。」
私はクスクス笑って、ダミアンに顔を向けた。思いの外至近距離にダミアンが顔を寄せていて、心臓がドクリと喜びで鳴った。ダミアンは唇に笑みを乗せて、私に口づけた。
甘やかす様な口づけは、次第に熱を帯びて、ダミアンの舌が私の中を掻き混ぜる頃には私は必死に縋り付く羽目になっていた。ああ、このまま時が止まれば良いのに。
私もダミアンもすっかり熱くなって、馬車が止まる気配を感じるとダミアンはガバリと身体を起こして窓から外を覗いて苦笑した。
「…若造の様に盛ってしまった。城の家令に見られたぞ。はは、あの顔、目を合わせない様にしてるが、随分と動揺してるな。さあ、この続きは夜までお預けだ。大丈夫、クレアはいつも綺麗だから。…ちょっと顔色が良くなっただけだ。ははは。」
私は家令や並んで迎えに出ている従者や侍女達の手前、どんな顔をして良いか分からなかった。思わずダミアンを睨みつけて、差し出された手に掴まって馬車を降りると、迎えに並んでいる人々の中に一人華奢な歳を経ても美しい貴婦人が立っているのに気がついた。
柔らかな金髪を美しく結い上げた侯爵夫人は、王都の侯爵家の奥に飾られたあの肖像画よりも一際繊細そうに見えた。私たちはまず彼女の前に進んで挨拶をした。
「母上、ご機嫌よう。お顔の色もよく、嬉しく存じます。こちらはエリスク伯爵家の長女クレア、私の婚約者です。クレア、私の母上のヴォクシー侯爵夫人だ。」
私は精一杯のカーテシーをすると、侯爵夫人に型通りの挨拶をした。私を見つめる濃い緑色の瞳に何か浮かんだ気がしたけれど、あっという間に貴婦人らしく心は読めなくなってしまった。
家令に案内されながら、私はダミアンの隣の部屋に通された。婚約者としてはあからさまな続き部屋の様な気がして、思わず案内してくれた侍女頭の顔を見つめると、彼女はにっこり微笑んで言った。
「クレア様、侯爵から事情は承っておりますわ。恐ろしい目にお会いしたんですもの、侯爵もお側に置いて安心なさりたいのですわ。まして侯爵のあの様な溺愛ぶりは私共には喜びしかございません。
どうぞこちらでお時間までゆるりとお過ごしくださいませ。…中に内扉がありますので、ご自由に行き来できるようになっております。」
そう意味深に言われてから、私は奥のソファでお茶や焼き菓子を供された。私がお茶を飲んで一息ついている間に荷物は運び込まれて、彼女たちは侍女頭一人残していつの間にか下がってしまった。
侍女頭から領地の美しい場所の話を聞いていると、ダミアンが扉から顔を覗かせた。ダミアンの分も紅茶を淹れると侍女頭はいそいそと部屋を辞してしまった。
「ああ、美味い。流石に休みなしでここまで来ると疲れるな。君が眠ってしまったので、つい一気に来てしまった。だがお陰でこうして二人きりになってゆっくり出来る。
晩餐まで休ませて欲しいと家令にも頼んできたんだ。」
そう言って、ダミアンは意味深に私をカップの向こうから見つめた。ああ、そんな眼差しで見つめられたら心臓が破裂してしまうわ!
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