慰めの口づけ

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慰めの口づけ

 どこかで私はずっと気を張って来たのかも知れなかった。止まらない涙をどうすることも出来ずに、気がつけば私はダミアンの腕の中に寄り掛かって、無防備に感情を溢れさせていた。 差し出された美しい刺繍のハンカチを顔に押し付けながら、私はようやく我に返った。涙は止まったものの、嗚咽は喉を締め付ける。ダミアンは眉を顰めてそんな私を見下ろすと、なぜか唇を顔に落として来た。 柔らかく瞼に触れる唇が優しくて、私は目を閉じてその慰めを受け入れた。頬をなぞる温かな唇、そしてゆっくりと唇に押し付けられた包み込む様な柔らかさは、私の目を開けさせた。  どうして私はダミアンと口づけているのかしら。目の前の閉じたダミアンの瞼から伸びる黒い睫毛をぼんやりした気持ちで見つめると、つられる様に私も再び目を閉じた。 (ツイ)ばむ様なその口づけは私を甘やかす様で、もっと癒されたいと私もまた顔を持ち上げたのだから、結局ダミアンを受け入れたのは私からなのかもしれない。  吐息混じりの啄む優しい口づけは、次第に熱の籠るものとなっていった。ダミアンの舌が私の吐息と共に唇の内側をなぞると、私は唇を開いてダミアンにもっとそうして欲しいとねだった。 だからダミアンの分厚い舌が、優しく私の口の中を探る頃には、私はどこか間違っていると思いながらも、それを止めようとはしなかった。葉巻の香りがしたのは一瞬で、私は口の中を何度も柔らかく撫でられて、戸惑いながらもその初めての気持ち良さに熱中した。  習う様に私もダミアンの舌を追いかける様になぞれば、ダミアンは私の悪戯な舌を優しく喰んだ。ゾクゾクする様なその感触に、私はますます目が開かない。こんな癒される様な、気持ちの良い感覚は初めてだった。 貴婦人たちが恋に騒めくのも、経験してみればなるほど納得してしまう。ただ、身体がどこか張り詰めた様に敏感になっていくのには混乱し始めていた。何か変だわ…。    抱き寄せられていた包み込む様なダミアンの逞しい身体もまた、熱くなっている様だった。同時にお腹に当たる何か硬いものに違和感を感じて思わず目を開けると、ダミアンも見たことのない胸がざわつく様な眼差しで私を見つめていた。 無言で私たちが顔を離すと、ダミアンが私の腰をグッと引き寄せてダミアン自身を更に感じさせた。その時には、私は侍女から教えてもらっていた男と女の身体の違いを実体験として知る羽目になっていたのだし、それは同時に妙な興奮を覚えた。    「…本当に硬くなるのですね。」 私が思わずそう呟くと、ダミアンは目を見開いて、次の瞬間には笑い始めた。 「何を言い出すかと思えば、クレアは全く予想もつかないね。こんなつもりも無かったが、確かに私はクレアとの口づけを、身体が昂るほどに気に入った様だ。…クレアも気に入ってくれたかい?」 私は身体を少し起こしてダミアンのそれから距離を取りながら、口を尖らせた。 「初めての割に抵抗がなかったのですもの、気に入らないとは言えませんわ。それにあれだけ泣いてしまった感情もどこかへ飛んでいってしまいました。何だか私って、簡単な女ですわね?でも慰めていただきありがとうございます。」  そう言ってスルリとダミアンの腕の中から逃げ出した。口ではそう言ったものの、時間が経ってくると叫び出したいくらい色々なやらかしをしてしまったとドキドキして来た。 気持ちを落ち着かせるためにゆっくりランタンの道を歩き出すと、ダミアンが私の手を腕に取って呟いた。 「私の身体も、君の酷い顔も、落ち着くまでしばらく夜風に当たった方が良さそうだ。」 私は散々泣いてしまって、化粧が落ちるどころか顔も腫れぼったくなってしまったのだと、ハッとして立ち止まるとダミアンに尋ねた。 「ダミアン様、私そんなに酷い顔をしてますか?どうしましょう、サロンに戻って直さないといけませんわね?」  するとダミアンは動揺する私をじっと見つめると、首を振って言った。 「君の泣き顔は、何があったのかと貴族たちの格好の話題にはなるだろうけどね、実際はそれほど酷いわけではないよ。むしろそんな顔を見せたら、貴族たちにあらぬ妄想を掻き立てさせるだろうね。だからもう少しひと気がなくなるまで、散策しよう。」 下手な慰めをされた気分で、けれども注目を浴びたかった訳ではなかった私は、大人しくダミアンの提案に乗った。閉じられた、包み込む様な夜の暗闇は私をリラックスさせた。  「…お母様が亡くなった後、こんなに泣いたのは初めてかもしれませんわ。お父様の悲嘆ぶりを見て、私は恐怖さえ感じていて悲しみに浸るどころじゃなかったのですもの。先ほどお母様と仲の良かったグラント伯爵夫人に優しい言葉を掛けられて、堪えていたものが抑えられなくなってしまったんです。 …こんな場所で泣いてしまって、ダミアン様にはお手を掛けさせてしまって申し訳ないですわ。ああ、私はもっと理性的な人間だと思っていたんですのよ?」  そうぼやくと、笑いの籠った口調でダミアンは答えた。 「そうなのかい?君が理性的と言うのには賛同しかねるがね。理性的な淑女はそもそも社交場に乗り込んだりしないだろうし、馬を馬鹿みたいに走らせたりしないだろう? だが君らしさは、この澱んだ社交界には新鮮な風だ。私はそれで良いと思うがね。無理に彼らの様に振る舞うこともないだろう。」    私は多分褒められているのよね?分かりずらいダミアンの言葉に、私はクスリと笑ってダミアンの手を取ると、少し広いレンガ敷きの庭園で向かい合った。 「では、理性的とは言えない私からの提案ですわ。閣下、どうかここで一緒にダンスを踊ってくださいませんか?今夜は私、踊り足りませんの。ダミアン様は直ぐにどこか消えてしまいますし、他の貴族と無闇に踊るのは良くないと遠慮していたんですもの。 ほらここまで音楽も届きますでしょう?お願いします、閣下。」  ダミアンはまた声を出して笑いながら、少し(カシコ)まると胸に手を置いてわざとらしく礼を取った。 「クレア嬢、踊り足りない貴女のお相手に選ばれるとは光栄なことだ。この夜の舞台で心ゆくまで踊り明かそうか。」 差し出されたダミアンの温かな手に指先を乗せれば、グッと引き寄せられて、私は笑顔で風に乗って聞こえてくる曲に乗ってステップを踏み出した。 ダミアンのそつのないダンスのリードは私を無我の境地に連れて行く。何も考えずにただ純粋にランタンの美しく揺れる闇夜で私は踊った。胸から湧き上がるその興奮と楽しさは、灯が反射して煌めくダミアンの青黒い瞳にも映し出されていた。  だからその時ダミアンが何を感じていたのか考えることもなかったし、二人のダンスが夜会の貴族たちに驚きと共にすっかり見られていたなんて、気づきもしなかったわ。
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