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偽りの関係
「ではクレア、行こうか。」
私の目の前に立った目つきの悪い侯爵は、さっきから私の頭のてっぺんから下まで不躾な視線を送っていたけれど、満足したのか張り付いた笑顔で私に手を差し出した。
側から見れば見え方も違うのかもしれないけれど、私は苦々しい気持ちで、このいけすかない傲慢な男の手を取った。心なしか、ヴォクシー閣下から送られたドレス一式が酷く重く感じるわ。
載せた手を痛いほど握られて、私はハッとヴォクシー閣下のゾッとする様な微笑を浮かべた顔を見上げた。
「クレア、もう少し恋人らしい眼差しを私に向けたらどうだい?見る人が見れば分かってしまうだろう?」
私はヴォクシー閣下の手を同じだけぎゅっと握り締めると、にっこりと微笑んだ。昨日鏡の前で作り上げた笑顔を思い出して、顔に乗せれば良いだけだもの。
少し眉を上げたヴォクシー閣下は、何も言わずに私をエスコートして歩き出した。今夜の夜会は醜聞と悲劇の続く貧乏伯爵家の令嬢である私と、難攻不落で注目の的である若き侯爵、ヴォクシー閣下の噂のカップルが参加するとあって、噂好きの貴族達がいつもより集まっている様だった。
「今まで君に目を付けなかった貴族達の悔しがる顔が見られるだけでも、余興としては楽しめそうだ。美しい銀の髪に、空色の瞳の君がそれなりに飾り立てれば、孫にも衣装そのものだから自信を持ってもいい。」
そう口元に笑みを貼り付けながら、全然褒めていないヴォクシー閣下に私は囁いた。
「せいぜい良い虫除けになる様に振る舞いますわ、ダミアン。」
私が呼び捨てると、ピクリと頬を引き攣らせて、もう一度私の指先をぎゅっと握ってきた。
「…あまり調子に乗らない事だ。私には敬意を払った方が良いのではないかね?」
私は唇を噛み締めながら、笑みを浮かべて囁いた。
「あら、虫除けには親密さが必要なのではありませんか?私の解釈が間違っていた様ですわね、ダミアン様。…ダミアン様、私は社交は一度だけ、しかも領地の小さな夜会に出た事しかございませんの。失敗しても責めたりなさらないで下さいね。」
口では強気な事を言いながらも、私は緊張で耳鳴りがしてきていた。ここで上手く虫除け役をこなさないと、この傲慢な男はあっさりと孤児院閉鎖の話をぶり返すに違いないわ。
あの夜社交場に乗り込んで、ほとんど成果が得られなかったと気を落としていた二日後、屋敷の家令が慌ただしく私に招待状を差し出した。
「クレアお嬢様、…ヴォクシー侯爵家より招待状でございます。」
緊張気味の家令の気持ちが良くわかるくらい同じく動揺していた私は、その美しい銀模様の封筒を部屋に持ち帰った。家令が気にしているのは分かったものの、社交場に乗り込んだ事を薄々知っている家令の前で封を開ける気にはなれなかった。
封を開けるとそこにはカードが一枚入っていた。日時指定で、ヴォクシー侯爵家へ招待するとの簡単なものだった。ヴォクシー閣下の署名の後に、走り書きでひと言【先日の話の続きをしよう】と、大胆な筆跡で書かれていた。
私はヴォクシー閣下が調べてくれると言っていた孤児院の話の事だと思ったものの、わざわざ呼びつけて私に話すような事なのだろうかと首を傾げた。けれども力のないエリスク伯爵家の貴族令嬢が、名家ヴォクシー侯爵家からの招待を断れる筈も無く、家令や侍女に招待のことを告げた。
それから屋敷の者達が舞い上がったのは言うまでもなかった。私がそんな話ではないと何度言い聞かせても侍女は涙を潤ませて言った。
「お若い頃の奥様は、それはそれは貴族界で引く手数多でございました。ですから奥様そっくりのクレアお嬢様が、今までデビューどころで無く、お家の為にいわく付きの後妻に入られる覚悟だと仰ってから、私どもはどんなに胸が張り裂けそうだったかしれません。
お家の事情でクレアお嬢様は社交界にもほとんど顔を見せておりません。お嬢様の言う様に、この招待に事情があったとしても、私たちは出来るだけのことをさせて頂きます。」
その言葉通り、彼女らは、夜なべでお母様の美しいロイヤルブルーのドレスを今風に仕立て直してくれた。あまり着飾って行くのは躊躇われたものの、侍女曰くは今時は街歩きをするのでさえ、これくらいのドレスを着るのだと怒られてしまった。
自意識過剰気味の私がヴォクシー閣下の前に通されると、ヴォクシー閣下はチラリと目をやるくらいで何の言葉も無かった。やっぱり侍女達の欲目なのだと、張り切って来た自分が馬鹿みたいに思えてしまった。
けれども、ヴォクシー閣下から告げられたのは予想も出来ない事だった。孤児院を閉鎖しない代わりに、私にヴォクシー閣下の虫除けになるべく夜会のパートナーを引き受ける条件を差し出されたのだから。
「社交に疎いクレアは私の事を知らなかった様だが、私には払っても纏わりつく美しい蝶達が居るのだよ。いい加減ウンザリだが、立場的に社交に出ないわけにもいかなくてね。そこで君の願いを叶える条件として、君にもひと汗かいてもらおうと思ったのだ。
もちろん私の虫除け期間はお礼として、伯爵家へこれだけの援助を送ろう。君にとっても悪い話ではないと思うが。
三年後の命が危うい後妻に入るより、誰か若くて金のある良心的な貴族の坊ちゃんに見染められたほうが良いのではないかね?期間は、そう長いことではない。どうだ、やる気はあるか?」
私に断る理由など無かった。孤児院が存続できるだけありがたいのに、伯爵家へ援助までしてくれると言う。虫除けが仕事だと思えば容易い事だわ。
私が頷くと、部屋に居た従者がテーブルに契約書を広げた。今言った様な事がきっちりと書かれている。家族にも誰にも他言無用と書かれているのを見て、私は顔を上げた。
「…家族にも秘密にするのですか?」
ヴォクシー閣下は手元の書類から顔を上げて、まるで私を馬鹿にしたような眼差しで見つめた。この人は私と話も終わっていないのに、仕事を始めている。私を尊重する気もない様だけど、そんな文句は言える立場じゃないわ。
私はため息をつくと、家族にも誰にも秘密にしますと一言言って、契約書にサインをした。もう、後戻りは出来ないわ。
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