47人が本棚に入れています
本棚に追加
複雑な気持ち
*
「浩一先生、今度の土曜日、空いてるー?」
いつものようにノックもせずに数学準備室へ入ってきた和瀬は浩一を見つけると、開口一番にそう言った。
「こら、山野! 入るときはノックしろっていつも言ってるだろ」
浩一が少し怖い顔でにらむと、和瀬は少し首を右に傾けてから部屋を出て行く。そして直後にノックの音が聞こえ、
「失礼いたします」
などと殊更丁寧な言葉とともに再び入ってきた。
そしてしれしれと言ってのける。
「これでいい? 浩一先生」
「まったく、おまえは。……いったいなんの用だ?」
「だーかーらー。今度の土曜日、先生空いてない?」
「……空いてない」
「もしかして、岡本とデート?」
一気に不機嫌そうになる和瀬に、浩一はやれやれと溜息をつく。
「仕事だよ、仕事。おまえら生徒は土曜日が休みでも、俺たち教師には仕事が山ほどあるんだよ」
「なーんだ。じゃ無理か」
「いったいなんなんだ? 山野」
「先生が前に観たいって言ってた映画のチケットが手に入ったから、一緒に行きたいなって思ったんだけど……」
和瀬が制服のポケットからチケットを二枚出して見せる。
「ああ……憶えててくれたのか。悪いな。友達とでも行って来いよ」
どちらにしろ、生徒と二人きりで映画になど行けないのだが、自分がチラッと口にしたことを憶えてくれていた和瀬が健気で、そのことには触れなかった。
「うん……でも、もういいや。チケットは健司(けんじ)にでもあげるよ」
健司とは和瀬の数少ない友人だ。
「ごめん」
浩一がもう一度謝ると、和瀬はにんまりとした笑顔を浮かべ、浩一に耳打ちしてきた。
「じゃあ映画の代わりにまた俺の部屋に来てくれる? 今度はオムライスごちそうするから」
ちゃっかりそんなふうに言うと、和瀬はふわりと香るいい匂いを残し、部屋を出て行った。
そんな和瀬の後姿を見ながら、他の数学教師が言う。
「井川先生、本当に山野に懐かれてますねー」
微笑ましいと言ったていで、そんなふうに言うのだろうが、浩一は複雑である。
これ以上和瀬との距離を縮めてはいけないと思うのだが、彼は孤独な魂を抱えていて、浩一を必要としている……そんな二つの気持ちがせめぎ合う。
そして覚える少しの危機感。
浩一は自分の中にある和瀬への思いが少しずつ形を変えて行こうとしているのを自覚していた――――。
最初のコメントを投稿しよう!