91人が本棚に入れています
本棚に追加
/30ページ
20、伝えられない想い
車は12階建てのマンションの地下パーキングに入っていく。
「このマンションの7階だよ」
壱弥はもっと高級なコンシェルジュサービス付きのタワーマンションなどに住んでいるのかと思っていたので、美優は少しホッとした。
それでも美優の住んでいるマンションの何倍も高級なマンションではあるけれど。
「ホッとした顔してるね」
少し可笑しそうに言った壱弥を見るといつもの様に優しく微笑んでる壱弥がいた。
「うん……。実はコンシェルジュとかいるのかと思って身構えてたの」
苦笑いしながら美優は壱弥に答えた。
「そういうの面倒くさいから要らないなって思ってさ。昔コンシェルジュに言い寄られた事があって迷惑したし」
「ええ? それは迷惑するね。信用してサービス受けてるのに」
「そうなんだ。すぐ苦情入れたけどね。だからそういう系のサービスってあんまり信用しないんだ、俺」
壱弥が大量の買い物袋と荷物を持とうとしたので、美優は慌てて止める。
「半分持つから。こういう事は半分こしてくれた方が私は嬉しいの」
壱弥は不服そうに言った。
「ええ~……? 俺が持つんじゃダメ?」
「こんなにいっぱい持ってる人の横で手ぶらでいるなんてそんなの心苦しいよ。私も持ちたい」
「じゃあ、美優ちゃんは自分の荷物だけ持ってくれる?」
「……じゃあ食材の袋と自分の荷物を持つね」
やはり不満そうに壱弥は言った。
「ええ~……? 袋は持たなくていいのに……」
「ダメだよ。持つの」
「……じゃあ、今回だけだよ?」
まるで美優がわがままを言ってる様な構図になってしまったが、それでも壱弥一人に持たせる位なら大した問題ではない。
美優は食材の袋と自分の荷物を持ってオートロックを解錠した壱弥の後をついてエントランスと豪華なソファの置かれたロビーを抜けてエレベーターに乗り込む。
7階に着いて一番奥の角部屋に進んだ。
「この部屋だよ」
鍵で玄関を開けて美優を先に入れる。
「スリッパ、買ったヤツ早速履こっか? ちょっと待ってて。鋏取って来るよ」
先に壱弥が部屋に入っていき、鋏を取って戻る。
商品タグを鋏で切って美優の選んだスリッパを床に揃える。
「どうぞ」
「ありがとう。お邪魔します」
「俺も美優ちゃんとお揃いのヤツ下ろそうっと」
二人の選んだものは大体、美優が白、壱弥が黒だった。
美優は特に白が好きだという訳ではないが、女性の選びそうな色の物を壱弥の家に置くのはなんとなく気が引けるので無難な白を選んだ。
下ろしたての白いスリッパを履いて、玄関を仕切る扉から部屋に入ると、広々とした30畳以上はあるだろうスペースにカウンターキッチンがあり、コーナーソファとテーブル、クイーンサイズのベッド、片隅にあるデスクにはデスクトップPCと大きめのモニターが置かれてある。
「凄く広い部屋だね」
所謂、ビックワンルームというものだ。
「うん、なんか元は3LDK位あったんだけど、全部無くしてワンルームにしちゃったんだ。あ、そこの扉ウォークインクローゼットだよ。そこに荷物置いてくれたらいいから」
「うん、ありがとう」
言われた扉を開けると、3畳ほどのスペースに棚と服を釣るポール2本ほどが渡してある。
壱弥はあまり服を持っていないのか、棚も余裕でスペースがあったしポールも片方だけを半分ほど使っているだけだった。
美優は邪魔にならない隅っこに自分の鞄を置いた。
「俺んち、プロジェクターしかないんだよね。テレビとか無くてごめん」
「ううん、構わないよ。私もそんなにテレビ見る方じゃないから」
「でも毎年家族で紅白見てたんでしょ? 子供の時に言ってたよ?」
「うん、見てたよ。でも今年は別に好きなアーティストも出ないし構わないよ」
本音を言えばあまり両親を思い出すものには触れたくなかった。いつ何時心の襞が揺れ動くかわからないから。
泣いたりして、壱弥や周りの人を困らせたり白けさせたりしたくない。
「そろそろ晩御飯だけど、お腹空いてる? 蕎麦食べる?」
食材を冷蔵庫に仕舞いながら壱弥は美優に訊ねた。
「そうだね、お腹空いたな。あ、あのね? お蕎麦湯掻くの私がやってみてもいい?」
「うん、いいよ」
壱弥が承諾すると美優はキッチンに行って腕まくりをした。
「毎年お母さんのお手伝いしてお蕎麦茹でたの。1人でやるのは初めてだけど、色々コツは教えてもらったんだ」
壱弥の家にあった一番大きな鍋は23㎝の深型の鍋で、その鍋に目一杯水を入れ、火にかけた。
「美優ちゃん、これ、ここ置くね?」
壱弥は冷蔵庫に寝かせておいた二人前の蕎麦の束をキッチンの作業スペース置いた。
「ありがとう。上手に出来るかわからないからあんまり期待しないでね?」
「多分俺の打ち方に問題あると思うから、やっぱ切れるんじゃないかな?」
「わかんないけど、結構茹で方重要だって言ってたから一度やってみるね」
火にかけた鍋の中の水はグツグツと煮えたぎり始めたタイミングで、美優は1人分の蕎麦を茹でる。
「あれ? 1人分ずつ茹でるの?」
「うん。多分このお湯の量だと1人分ずつしか茹でられないんだと思うの」
「俺、普通に3人分茹でてたかも」
「なんかね? ちゃんと鍋の中で対流させて水分をたくさん含ませないといけないって言ってた。お湯に浸かってない所が切れちゃうんじゃないかな?」
壱弥は感心した様に鍋の中を覗き込む。
「へえ。そうだったんだ。まず鍋から間違ってたんだね」
「仕方ないよ。本格的に料理しようと思ったら結構道具揃えないといけないから」
「俺、料理は片手間で出来る様なものしか作らないからな~。でも蕎麦打ちやってみると楽しかったよ」
「私も料理って毎日ちゃんとしたもの作るのは難しいけど、結構好きかも」
美優はそう言いながら、パックの出汁を取り、材料を合わせて蕎麦つゆを作った。
「一応、即席のめんつゆ用意してたんだけど、美優ちゃん簡単に作っちゃったね」
「これはお母さんに毎年やっておきなさいって言われてやってたの。お出汁は基本だからって。家では鰹と昆布から取ってた」
「へえ。さすが美優ちゃんのお母さんだね」
そう会話をしていると、蕎麦が茹で上がる。
「お? 切れてない」
「あ、ホントだ。上手くいったみたい。よかった」
「じゃあ打ち方に問題あったわけじゃないんだ」
「そうみたいだね。壱弥君のお蕎麦、きっと美味しいよ? 楽しみ」
そう笑いながら流水で蕎麦を洗ってぬめりを取る。
蕎麦つゆの中に洗った蕎麦を入れて、温める。
「はい、1人分出来たよ。次のお蕎麦を茹でながら天ぷら温めちゃおう。レンジとトースター借りるね?」
「うん、使って。美優ちゃんなら許可とか取らなくていいから」
「ありがとう」
まずは電子レンジでエビ天を軽く温める。その後トースターで焼く。
出来上がった蕎麦に温めたエビ天と蒲鉾、刻み葱を乗せる。
「うん、切れなかったし、これは楽しみだね」
美優は二つ出来上がった物の先に出来た方を自分の前に置く。
「さ、食べよっか」
それを見ていた壱弥は自分の前に置かれた蕎麦と美優の前に置かれた蕎麦を交換する。
「美優ちゃんは出来立ての方食べてみて?」
「でも……」
「美優ちゃんに食べて欲しくて蕎麦打ってみたんだから、美優ちゃんが食べてくれなきゃ意味ないよ」
やはり頑として譲ってくれない時に見せる笑顔で壱弥は蕎麦の器を薦めた。
「……わかった。ありがとう」
キッチンカウンターに先程買って来たランチョンマットを敷いて、先程買って来た箸を用意する。
カウンターチェアに二人は座った。
「「いただきます」」
手を合わせて箸を鉢に運ぶ。
啜ってみた蕎麦は、蕎麦粉の風味が豊かで薫り高い。
「美味しい! 壱弥君のお蕎麦、ホントに美味しいよ!」
「そうかな? 美優ちゃんの作った蕎麦つゆが美味しかったんじゃないかな?」
「ううん、違うよ? だって蕎麦粉の香りが美味しいんだもん」
また蕎麦を啜って、その香りを味わう。
「うん、やっぱりいい香りだもん。……ありがとうね、壱弥君」
美優は自分の為に一生懸命に蕎麦を打ってくれた壱弥を思うと嬉しくなった。
はふはふと頬を紅潮させて蕎麦を食べる美優を壱弥は愛おしげな瞳で見つめる。
「……美優ちゃんはホントにいい子だよね」
「え? 何? 突然」
そんな壱弥の視線に気が付いた美優は、なんだか恥ずかしくなって蕎麦を運ぶ箸を止める。
「美優ちゃんと会ったら、『ありがとう』って聞かない日って無いんだよね。昔からそうだ」
「え? そ、そうかな?」
「うん、いつもちょっと何かしただけで、ありがとうって言ってくれるよ?」
「……ああ、でも、お父さんが人に何かしてもらったらありがとうって言う方が気持ちいいよねって言ってたかも」
「お父さんの影響なんだね」
「うん、そういえばお父さんはいつも誰かにありがとうって言ってた。お母さんにも私にも」
「俺、お父さんにもお会いしたかったな。あの時はお仕事忙しかったんだろうね。殆どお家にいらっしゃらなかったね」
「あの時は毎週お祖母ちゃんのお見舞いに行ってたの」
「ご病気だったの?」
「うん。末期癌だったんだって」
「そっか。近頃は病院ってあんまり面会させてもらえないんだよね」
「うん、感染症が怖いんだろうね。でも最後には立ち会えたよ」
「そっか」
美優は父親と母親に肩を抱かれながら祖母を見送った事を思い出した。
瘦せ細った祖母のしわしわの手を握らせてもらった。弱弱しく握り返してくれた祖母はあの時涙を流す自分に何を思っていたのだろう。
祖母の臨終の後に言った父の言葉を思い出す。
『美優はお父さんの事もお母さんの事もこんな風に見送らなきゃいけないから、こんな時に美優を支えてくれるいい人と一緒になってくれな? じゃないと父さん、心配であの世に行けないよ』
自分には父母の臨終の際に支えてくれた人はいなかった。父は今も心配してあの世に行けずにいるのだろうか?
そんな事をふと思った瞬間、壱弥の手が美優の頭を、そして髪を撫でた。
「ごめん、お父さんの事思い出しちゃったね」
「……壱弥君は、どうして私の考えてる事わかっちゃうの?」
「……う~ん……なんでだろう? なんとなくわかる。……多分、俺が美優ちゃんばっかり見てるからじゃないかな?」
そうは言っても美優も壱弥の考えている事はなんとなくわかる。
特に絶対譲ってくれない時の意志の強い眼差しは、その笑顔に隠されがちだけど頑としている事を美優はよく知っている。
「さ、お蕎麦食べちゃおうか。伸びちゃうよ」
「うん」
美優は思う。こんな風に誰かと年越し蕎麦を食べられるなんて思ってもみなかった。
本当は決まっている気持ちをいつ、どんな風に伝えればいいのか、そしてそれが出来れば父は安心してくれるのだろうか?
蕎麦粉の香りを感じながら、壱弥が自分に向かって微笑むと温かい気持ちで一杯の胸に今は素直に従って微笑み返す。
最初のコメントを投稿しよう!