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「それにしても伊藤くん、こういう飲みの席が初めてってめずらしいね」
「恥ずかしながら、お酒を飲んだことすらないんだ」
「へえ、どうして?」
「うちの家系は、代々お酒に弱いらしくてね。すぐに酔っ払って人様に迷惑かけるからって、子どもの頃からお酒は絶対ダメって言われて育ってきたんだよ。だから、どうせ飲んだところで、みんなみたいに何者かになれるなんてこともないんだと思う」
「ふうん、親の教えをちゃんと守ってて偉いわ」
「でも、今夜は隣に裕子ちゃんがいてくれてよかったよ。僕ら人間同士、二人きりになれたからね」
よく言った、おれ! しかし、裕子ちゃんが不敵な笑みを浮かべる。
「それはどうかしら。少し他の同期のみんなとも話してくるわね」
「そんな……」
と、裕子ちゃんが席を立ってしまうかと思った、そのときだった。
その白くて細い首が、ぬうっと長く伸びた。
「ちょっと待って……」
すぐさま裕子ちゃんの顔は狼男の隣へ移動していて、おれの声は届かない。
「残念、フラれちゃったみたいだな」
呆然とするおれに向かって、課長が言う。
「いや、別に好きだったとかそんなんじゃ!」
「隠さなくていい。伊藤が裕子ちゃんに思いを寄せてるのは、研修のときからバレバレだったさ。いいことじゃないか。若い証拠だ」
よく見ると、笑っている課長の顔色はやけに青白く、開いた口からは長く鋭い犬歯が姿を覗かせていた。吸血鬼らしい。
「ああ、そろそろできあがってきて人間の血が飲みたい頃だよ」
「…………」
すぐさま課長のセリフの意味を悟ったおれは、一瞬にして青ざめた。この中で人間は自分だけだ。
ところが、課長は「いやいや」と気さくに笑いかけながら顔の前で手を振った。
「おれは、本来の姿も人間の奴しか狙わないさ」
「どういうことですか」
「伊藤から人間の匂いはしない。お前も知らないうちに化けてるんだよ」
「そんなバカな……」
「なあ、今度こそ飲みたくなってきたんじゃないのか?」
課長がお猪口に日本酒を注ぎ、こちらへ差し出してくる。
おれはゴクリと喉を鳴らした。視界の端には、楽しそうに笑う狼男とろくろ首の姿がよぎる……見てろよ、本来のおれはこんなもんじゃないんだ。
おれは課長からお猪口を奪うように受け取ると、酒を一気にあおった。
舌から胃にかけて、酒の通った道に火が走る。
頭の中がぼんやりとしてきて、目が回る。見上げた天井がだんだんと落ちて近づいてくる。いや、違う。おれが巨大化して、天井へと近づいているのだ。
あ、ぶつかる──。
ふと我に返ったときには、夜空の星がやけに顔の近くにあった。
火照った身体をなでる冷たい風、建物を踏み潰す足の裏の感触、鼓膜を揺らすサイレンの音……すべてが心地よい。フラれたなんてなんのその。これができあがるという感覚か。どうしてもっと早くに知ろうとしなかったんだろう。
特撮映画に出てくるような二足歩行の大怪獣と化したおれは、二軒目を求めて千鳥足で街を歩き始めた。
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