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気絶したのか、消滅はしなかったものの動かなくなった犬の口から水島は己の腕を抜いた。深く噛まれたようで彼の左手からは大量の血が流れていた。
「水……島……さん」
小鳥は自分の脚の痛みを忘れる程に驚いていた。水島が負傷してまで自分を助けてくれるとは思っていなかったのだ。小鳥が犬に襲われた時、一番遠くに居たはずの彼が。
「だ、大丈夫ですか……?」
「大丈夫な訳ないだろうが!! これで左手がしばらく使えねぇわ!」
怒鳴られたが小鳥は言い返さなかった。迷惑をかけたのは自分なのだ。
水島は舌打ちして立ち上がった。自衛隊に居た頃から、右手を軸にして武器を扱うように訓練を受けてきた。だから左手が駄目になっても銃は撃てる。しかし残弾数が少なく、両手で支える槍の威力は半減するだろう。
「ちっくしょ……」
多岐川と雫が武器を振り回して、魔物が近付かないように牽制してくれていた。槍を片手で持った水島は珍しく弱音を吐いた。
「これは……キツイ状況だな」
四名でかなりの数の魔物を倒したというのに、依然として敵の方が優勢である。ヨロヨロと立ち上がった小鳥の脚が更に重傷となってしまったので、強引に走って逃げるという手段も封じられた。
藤宮の持つショットガンを穴の下へ落としてもらうべきだった。
『そこまでじゃ。姫を傷付けること、まかり成らぬ』
その時、男の声が場に響いた。
同時にとある部屋の御簾が全て、独りでにするすると巻き上がっていった。
これまでの経験から四名は予測できた。フロアボスの登場だと。
「あ…………!」
御簾が隠していた人物の姿が露わとなった。貴族風の着物を身に着け、烏帽子を被った優男だった。
「ヤスフミ……」
水島、小鳥、多岐川は雫が口にした名前に聞き覚えが有った。
確か泰史は呪いを生み出した優秀な陰陽師だ。そして詩音を凌辱した男。
『姫、お迎えが遅れて申し訳ありません』
泰史が恭しく腰を折ってお辞儀をした。その後ろには大柄な鎧武者が控えていた。
彼らから、これまで相手にしてきた魔物とは比べものにならない妖気を感じた。その気に魔物も当てられたのか、包囲網を作っていた人蜘蛛と爬虫類男が動きを止めた。
「ヤスフミ、アツキ、あなた方もずっと迷宮に居たのですね……。ごめんなさい二人とも、不甲斐ない私のせいで長らく苦しめてしまいました」
謝罪する雫へ泰史が近付いた。彼女を護ろうと隣へ立った多岐川を冷たい瞳で一瞥した陰陽師は、雫へは柔らかく微笑んだ。
『どうかご自分を責めないで下さい。浅ましい身となっても、存在し続ければいつかまたお目にかかれる日が来ると信じておりました』
泰史は優しい言葉を雫へ掛けた。その同じ口から、彼は恐ろしい意志表明をした。
『さぁ姫。我らと共に、裏切り者の縁者を根絶やしにしてやりましょう。そして我らを追いやり建てられた穢れた国、そこに住まう者達に血の制裁を』
「ヤスフミ……」
雫は眉をハノ字にした。
「あなたの気持ちはよく解ります。全てを憎みたくなる程に、あの暮らしは哀しくつらいものでしたね」
『はい。高貴な身分であられる貴女に相応しい暮らしではありませんでした』
「でも……」
『?』
「復讐は……もうやめましょう」
『……はい?』
泰史の顔から笑みが消えた。
『何と? 姫は今なんと仰いました?』
「復讐をやめようと申しました」
『………………』
泰史は真顔で雫を見下ろした。
『何を!?』
一歩前進した泰史に対して雫は一歩後退した。隣の多岐川が雫の前へ出た。太刀を構える多岐川のことを泰史は眼中に入れず、雫のみに詰め寄った。
『姫は源氏に追い立てられた、あの恥辱の日々をお忘れになったのですか!? その御身を汚した家臣どもの裏切りも!』
「全て、覚えております……。ですが血を流し続ける限り、新たな哀しみが生まれるだけです。呪いの元凶である家臣達は先ほど上の階で、私自ら引導を渡して参りました」
『まだ子孫が残っております!』
「彼らの今後に関しては、この時代を生きる者達に託しましょう」
『甘い! 何と言う甘く愚かな考え!!』
ブワッと泰史の妖気が増幅された。いや、これは怒気なのか。
攻撃色の強い凄まじい気が雫以下四名の肌を刺激し、心臓の鼓動も早めた。
『貴女のその考えは、犠牲となった全ての者へ対する冒涜です……! 何の為に我やアツキが苦渋の日々を耐えてきたと思うのです? 決してあの裏切り者達を許す為ではない!!』
「ヤスフミ、私は……」
『では姫、どうして貴女は迷宮奥まで来られたのです? 何をしに……』
そこまで言って泰史はハッとした。
『まさか……引導を渡した家臣達のように、我らをも消滅させるおつもりか?』
雫は一度唇を噛んだ。それでも強い瞳で覚悟を告げた。
「そうです……。ヤスフミ、アツキ、私はあなた達を滅ぼし、八百年間続いた呪いを解除しに来たのです」
泰史が二歩後ろへよろけた。
『何て……何ということを……。貴女の為に最後まで仕えた我らを切り捨てると仰るのか……』
「違う! 見捨てるのではありません。私達は既に過去の者、今を生きる者達へ干渉するべきではないのです。全てが終わったら私も潔く消えましょう!」
『黙れえぇぇ!! この裏切り者があぁぁぁぁ!!!!』
大絶叫した泰史の両の目から涙が滴った。赤い────血の涙だ。
『……可愛さ余って憎さ百倍……。どうしてくれよう、嗚呼、平家の姫としての立場を忘れた、この愚かな姫をどうしてくれよう……』
「ヤスフミ……」
陰陽師が肩を大きく揺らして笑った。
『ほほほほほ、そうじゃ。姫も呪いの一部としよう。神としての力を備えた姫ならば強力な呪具となろうからな』
「なっ、そんなことはさせません!」
ギョッとして刀を強く握った多岐川へ、泰史がねめつけるように赤い眼を向けた。
『下賤なる民よ。そなた達に生き延びる機会をくれてやろう。姫を大人しく我へ差し出せ。さすれば魔物に手出しをさせぬ。無事に地上へ還るが良い』
「そんな取引に乗るか! シズクさんは渡さない!!」
多岐川は即座に断った。しかし彼へ槍の切っ先を向ける者が居た。
片手一本で漆黒の柄を握る水島であった。
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