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秋にしては少し暑い日、わたしは思い切って告白をして、ハグをして、キスをした。それからふたりで笑い合って彼女は私の肩を叩いた。そのまま肩に手を乗せて、わたしの制服をきゅっとつかんだ。それはいつもの彼女の癖でそれ以上でもそれ以下でもなかった。ここは彼女の家から駅までの帰り道で、誰もいない閑静な住宅街にある踏切の手前だった。彼女は少し大きめなナイキのロゴがついたサンダルを履いていて、わたしは学校に履いていってるやつとは別のお気に入りのスニーカーを履いていた。
電車はいつも申し合わせたみたいにわたしたちに数分の猶予をくれる。夕日がきれいみたいな少し含みのあることを言って、彼女におきみやげのようなものを残していこうかと考えては気恥ずかしくなってやめる。好きだとかきれいだとか、いまさらそんなこと言ったって地球の自転が速くなるわけでも、明日が今年の春の始業式の日になるわけでもない。どうして出会う前に好きになるって知ることができないのだろう。
踏切は無慈悲に回答の期限がきたことを知らせる。好きだよじゃなくて、きれいだよでもなくて、そう、さよならだ。また明日も会うのに、また明日も会えるのに、また明日も会えるから、何度も、何度もお別れを言うんだ。そのたびに、こころが雫のような形になって自らの存在を主張する。
踏切が完全に上がって、静寂がふたりのことを包んで、わたしの前にぽっかりと空いたこの空白は恋だ。
* * *
「もしわたしたちがカップルだったらさ、どっちが彼氏かな」
わたしの問いに美咲は顔をしかめた。そのまま彼女は最後の一個になったウインナーを口まで運ぶ。机をふたつ向かい合わせで並べてお弁当を食べていると彼女の一挙手一投足がよく見えた。四限の数学の小テストが終わり、クラス全体がほとんど放課と変わらない雰囲気に包まれていて彼女も例外ではなかった。上の空でわたしの話を聞いている。眠そうに、長いまつ毛をぱちぱちと上下させて、まばたきをしていた。
「そりゃあ、あたしじゃない?」
と彼女は言った。その返事を聞いて、わたしは自分がどんな返答を期待していたのかわからなくなる。彼女は「あたしの方が真優より背が高いし」と付け加えた。
「えーそうかな」
わたしはそう曖昧に答えて、苦く笑った。窓の外に目線を移す。そこにはちょっぴり歪んだ顔で笑うわたしが映っていて、すぐに焦点を校庭へ合わせた。誰もいない校庭は青春の象徴のように太陽の光が降り注いでいる。もう十月も終わるというのに。
「最近暑いよね。さっきのテスト、ぽかぽかして集中できなかったもん」
話を逸らすようにわたしは言った。視線はまだ校庭の白っぽい砂を見ていた。
「いじょーきしょーだよ。このまま冬が来なかったりして」
「ね、もうすぐ受験かぁ」
「あと二ヶ月とか? ちょっとはやくない?」
やばいなぁと美咲は大きくため息をついた。ヤダなぁとわたしは独り言のようにつぶやいて、お弁当箱の蓋を閉じた。なんだか余命宣告みたいだと思った。
わたしは思い出したように机の中から単語帳を取り出した。五限目は英語で毎回授業の最初に単語テストがあった。彼女はそれが体の一部であるかのように、化石のようなアイフォンを手に持っている。配布された単語テストの範囲表を見てわたしは、明日がハロウィンだと知った。
あれは昨年のハロウィンの帰り道だったことを思い出す。
若気の至りだとか、そういうありきたりな言葉で片付けられる出来事だ。今のわたしには、どうしてあんなことができたのか理性的にも感情的にも理解できなかった。あのときはただ何か、彼女に何かを与えたかった。わたしがいるよってことを伝えたかった。その思いがぶわっと大きな空白になってわたしを包んでしまったのだ。それをわたしは恋と勘違いした。
「そうえば明日ハロウィンじゃん」
なんでもなさそうに彼女は言う。目はスマホに向けたままだ。渋谷ハロウィンのニュースでも見ているのだろう。
「わたしもさっき気づいたよ。この紙を見てさ」
わたしは範囲表が書かれたわら半紙をひらひらと白旗のようになびかせる。
「あ、次の授業、英語だっけ? 全然やってないや。間に合うかな。ちょ、一緒に見よ」
わたしは単語帳を彼女にも見えるように机の中心まで持っていき、範囲のページを開いた。彼女が真剣に見つめる単語帳が閉じてしまわないようにわたしは腕を伸ばして本をおさえた。彼女に指先を見つめられているようでなんだか落ち着かなかった。
「見づらいな」
彼女はそう言って、二つ繋げていた机を元のように戻し、わたしたちは一つの机の上で顔を寄せあって単語帳を眺めあった。
「……次のページいって……」
わたしは言われたとおりページをめくる。彼女は小さく二度咳払いをして「ねえ」とつぶやいた。
「今日か明日さ、明後日でもいいや。あたしの家で遊ばない……? 昨年みたいにハロウィンパーティーしようよ。勉強の……息抜きにさ」
わたしが驚いて美咲の方を向いても、彼女は目を単語帳に向けたままだった。彼女のまぶたがその長いまつ毛を印象的に何度も揺らしている。横からでは彼女の瞳が何を見ているのか判断することはできなかった。それはacknowledgeかもしれないし、inclinedかもしれなかった。
「次、お願い」
そう言われてわたしはほとんど無意識的にページを一枚めくった。そして自分が質問を受けている立場であることを思い出した。
「明日と明後日は塾があるから今日でいい?」
わたしがそう答えると同時にチャイムが鳴って、約束は曖昧のまま彼女は自分の席に戻っていった。でもわたしの返事は聞こえたようで優しく微笑んでうなずいていた。
* * *
「パーティーってなにするの?」
学校の正門を出て、わたしは言う。二人並んで転ばない程度にゆっくりと自転車をこぐ。運動部がちらほら校庭に出て準備運動を始めている。昼間の温かさが微かに残る夕暮れ。ようやく秋になるのだと、気温や周りの木々、空気の匂いなんかを通してそう思う。秋は好きだ。わたしは秋のような人になりたい。
「仮装かな?」
「なんの?」
「なんだろう?」
「おばけ?」
「かぼちゃ?」
「魔女?」
「ありきたりだね」
「だね」
「そうえばさ、渋谷のハロウィンなくなっちゃうみたいだね。あたし一回行ってみたかったのに」
「ね、なんだか寂しいよね。わたしも結構好きだった」
「行ったことあるの?」
「ううん。ないけど、なんとなく好きなの」
「ないけど、なんとなく好きなんだ? 軽トラひっくり返したりするのが」
「あれはやりすぎだけどね。そういうのも含めて好き」
美咲はふうんと意味ありげに笑った。その笑顔がなんだか印象的でわたしは言葉に詰まってしまった。そんなことをしているうちに彼女の家についてしまった。
美咲の家は学校の近くの住宅街にある。以前わたしが十分前に起きれば学校に間に合いそうと言ったら、さすがに十分は無理だと笑われた。
「でも三十分貰えれば行けると思う。二十分で支度して、十分で学校まで行く」
「それを十分で間に合うって言うんじゃないの?」
とわたしが言うと、肩を叩かれ「女の子をナメるな」と怒られた。
彼女の家に行くのは二回目だった。彼女は家にあまり人を呼びたがらなかった。わたしの家が近くにあればいいのだけど、放課後に遊びに行くには少し遠かった。とても閑静な住宅街だと思う。昨年の記憶と季節柄が重なってそう感じているだけなのかもしれない。
玄関横に自転車を並べて止める。こじんまりとした二階建ての一軒家で、すぐ隣にも似たような家が建っていた。庭と呼べるような敷地はなくて、こんなにも隣接して他の人の家がある生活というのはどんな感じなのだろうと昨年も思ったことを思い出す。彼女はリュックの中からウサギのキーホルダーがついた鍵を取り出して玄関のドアを開けた。人気のない薄暗い空間がその奥に広がっている。
「おじゃまします」
とわたしは言ってから靴を脱いで、玄関に上がった。彼女は何も言わずに廊下を歩き、そのまま奥にある階段を上る。わたしはリビングに通じるであろう閉ざされたドアを一瞥して彼女の後を追った。この部屋の中に彼女の家族としての生活があるのだと思った。この廊下からは人の生活の匂いがほとんどしなかった。
以前わたしが来たときは居なくなった人の匂いがした。確か廊下には小物を置く小さな机があって、その上にオシャレな芳香剤と外国の船着場が描かれた絵画が飾られていた。なぜだかわからないけど、わたしにはそれが異様に見えて鮮明に記憶していた。それは残されたものだった。必要だから置いているとか、置いたことを忘れられているとかではない。そういうものは日常に溶け込むけど、その絵画はまるで遺物のような時代にそぐわない雰囲気を感じた。
彼女の部屋はというとこの一年で見違えるほどの変化を遂げていた。勉強机の他に化粧品が並べられた机が増えていて、床に直接少し型の古そうなテレビが置かれている。前はもっと洋服などで散らかっていたイメージがあったけど、それらは全てタンスやクローゼットの中に収納されているようだった。
「少しきれいになった?」
「なにが? 部屋?」
わたしがうなずくと、彼女はわたしと同じように自らの部屋を見回した。机が二つあるのに狭苦しさがなかった。私の部屋だったらたぶん窮屈に感じるだろう。
「前来たときがたまたま散らかってただけじゃない?」
「そんなことないと思うけどなぁ」
とわたしは言った。彼女は飲み物を取ってくると部屋から出て行った。ドアはさっきからずっと開けたままになっている。この家には本当に誰もいないんだろう。開かれたままのドアに落ち着きのなさを感じながら、わたしは彼女のことを待った。
彼女が階下で冷蔵庫を開けたり、コップを食器棚から出している音が聞こえる。外からは時折鳥の泣き声が聞こえるくらいで車の排気音や人の声のようなものは一切しなかった。彼女はこの部屋で一体どんな生活をしているのだろう。わたしの目の前には綺麗に整えられたベッドと畳まれた薄いベージュ色の羽毛布団があった。
想像することはできる。でも想像することしかできない。
彼女は麦茶の入ったコップをふたつ手に持って来た。お盆のようなものを使わないのが彼女らしいなと思いつつ、麦茶という家庭的な飲み物に困惑する。彼女はそれを勉強机の上に置いた。赤っぽいのがあたし、青いのが真優の。
「それで考えたんだけど、一緒にメイクしようよ。真優は全然そういうのやんないでしょ」
「うん。だって高校生まではメイクしなくていいんでしょ?」
「そんな風に考えてるの世界中で真優だけだよ」
わたしが「そうなの」と首を傾げると彼女はふっと吹きだすように笑った。それがツボに入ったらしく、彼女はしばらく笑い続けた。しんとした空間に彼女の笑い声だけが響いた。
「笑いすぎだって。ツボおかしいよ」
「だって……いや、わたし今日おかしいね」
「自覚あるんだ」
「あるある。なんか最近おかしいんだよね。この前なんか夜に怖くて一人で泣いたし」
「もう、なにそれ」
「嘘じゃなくてさ。ほんとに」
と彼女は笑いすぎて出てきた涙を指で拭った。
「それでなんだっけ? そう、メイクしよ」
「ハロウィンメイク?」
「違う違う。そういうんじゃなくて、もっと普通のメイク。でもそれじゃつまらないから、どうしたい?」
「え、わたし? じゃあ、相手の顔を真似るメイクは? ちょっと仮装っぽいし」
「いいね。それにしよう」
「テキトーじゃん」
「いいんだよ、なんだって」
「わたしメイクしたことないんだけど」
「自分が言ったんじゃん。いいんだよ、変になった方が面白いし」
わたしが不満に顔を膨らませると、すぐさま彼女はわたしの頬を両手で挟んだ。わたしの頬が潰れて変な音が出たのを見て、悪戯を成功させた子供のように彼女は大声で笑った。怒ったわたしは仕返しに彼女の両手を払い、彼女が大きく口を開けて笑う様子をスマホで撮った。
「ちょっと、撮るなって」
「メイクの参考にするから」
「じゃあ、あたしにも撮らせてよ」
わたしは彼女の言葉を無視して、メイク道具が置かれた机の前に座る。しかし勢いよく座ったは良いものの何をすればいいか全く見当がつかなかった。とりあえず目について、用途がはっきりしている口紅を手に取る。すると慌てて彼女が私から口紅を取り上げた。
「あたしが手伝うから、ちょっとあんまテキトーに触らないで」
そう言って彼女はガサゴソと机の上にある化粧品たちを手に取り、その軽い説明と使い方をわたしに教えてくれた。それを終えると彼女は必要なものを持って勉強机の方へ行った。
「ねえ、これすごく難しいよ。絶対うまくいかない」
「当たり前よ。あたしだって絶対に変になる」
「じゃあなんでオッケーしたの」
「おもしろそうだから」
彼女は鏡に向かって目を大きく見開きながら何かをやっていた。わたしはというと、何をしたら彼女に似るかわからずとりあえず髪型をいじっていた。しかし彼女の長くて真っ直ぐな髪を、ショートのわたしの髪で真似するにはむりがあり、とりあえず前髪をあげることしかできなかった。体育の時間など運動するとき、彼女はよく前髪を上げて額を出していた。
「真優の目ってさ、ちょーきれいな二重だよね」
「そう?」
あまり意識したことがなかったけど、鏡を覗き込むと確かにわたしの目は二重だった。彼女の目は一重だ。そう考えるとわたしたちふたりは色んなところが正反対だ。
「やっぱり自覚ないんだ。ああ、嫉妬」
「嫉妬って」
嫉妬って、なんだろう。わたしはなれるなら、わたし以外の誰かになりたい。そういう感情を嫉妬と呼ぶのだろうか。それならわたしは美咲になりたい。
彼女の唇を思い出す。いつも薄いピンク色をしていて、血色の悪いわたしの唇とは違う。彼女の口紅を使えば同じ色になるんじゃないかと思った。軽くつけてみるとやっぱり似た色になって、彼女は毎日これをつけて学校に来ていたんだと知る。
それから「あ、これ関節キスじゃん」って思って、使い方間違ってないよなって不安になりスマホで調べてみる。スマホを開くとさっき撮った写真が出てきて、いい写真だなって眺めてからわたしの無機質な写真フォルダの中にそっと戻した。
「できた〜?」
そう言う彼女はわたしに顔を見せないように背を向けている。
「もうちょっと待って。ねえ、そうえば口紅、普通に使っちゃったけどよかった?」
「いいけど、なんで?」
「いや、人に使われるの嫌かなって」
「全然気にしないよ。てか、だってあたしたちキスしてんじゃん」
「え?」
わたしは驚いて彼女の方を向く。彼女はわたしに背を向けたままで、表情は見えない。
「覚えてないの?」
「……覚えてないよ。そんなこと」
「ウソだぁ」
わたしが黙り込むと彼女も同じように黙った。真っ直ぐで長い髪をこちらに向けた美咲と対面していると、彼女であって彼女ではない何かと話しているような感覚に陥った。
沈黙。あのときと同じだと思った。ぎゅっと心が苦しくなるような、それでいてこのまま時が止まってしまえばいいと思えるような息苦しさ。心臓が口に触れそうなくらい膨れ上がって、それに伴って心が存在を主張する。
好きだよ。愛してる。綺麗だね。かわいい。かわいそう。似合ってる。大好き。こわいよ。ごめんね。ずっと。スキ。なりたい。もっと。いいな。一緒。ウソだよ。嘘じゃない。すき。きらい。ねえ、わたしは……***のなに?
「あたしさ」
と美咲が言った。
「去年色々あったじゃん。不倫とか離婚とか。だから考えたんだ、よく。好きとか嫌いとか。頭がごちゃごちゃになるくらい。不倫したお母さんは嫌いだけど好きだし、離婚したお父さんも好きだけど嫌い」
彼女はずっと後ろを向いたまま、ぽつぽつとゆっくり枯れ葉が落ちていくように話す。わたしはその間ずっと彼女の後ろ姿を見ていた。彼女は絵画のように、もしくは写真みたいにピクリとも動かなかった。
わたしはずっとその長くて綺麗な髪に、その少し骨ばった肩に、髪に隠れた小さな顔に触れたかった。でも触れられなかった。それは写真や絵画に触れられないのと同じだった。実体があって立体的、確かに奥行もあるのに触れることはできない。
「色々考えたけど、分からなかったよ。あたしのこの感情がどの言葉に分類されるのかなんて。でもさ、それでいいんだよ。それが正しいんだと思う。その感情が間違ってるわけない」
彼女はぐるりとこちらを向いてわたしを見た。わたしたちはふたり見つめ合って、それから耐えられなくなったように笑いだす。どうしてわたしたちはこんなふざけた顔で真面目な表情をしていたのだろう。
彼女はない前髪をヘアピンを使って無理やり作って、目は二重になっていた。頬にはよくわからない青っぽい色のチークが入っている。口紅は落としたのか、彼女本来の黒っぽいピンク色になってる。
「ねえ、ちょっと真由うまくない? ずるいんだけど」
「でしょ、ってねえ、その顔でこっち来ないで。二重が似合ってなさすぎて笑っちゃうから」
「ひっどいあたしのコンプレックスなんだけど」
「知らないよ。ぜったい前の方がいい。ね、ほんとにこっち見ないで」
「その、真由の目もとがいいよね。あたしに似てるかは置いといてさ」
「え、似てるでしょ。美咲の目こんな感じだよ」
わたしが目を細めてからかうと、彼女はやめてよとわたしの肩を叩いた。その振動は心までは届かず、肩を中心に体全体へ広がっていく。
そっか、そんな簡単なことだったんだ。とわたしは気づく。美咲を思うとぽっかりと空いてしまう心の空白もいまはない。わたしたちは、わたしたちだけの言葉を使い、感情を使い、ふたりだけの王国を作っていけばいいんだ。
そこにはささやかな森があって、木には必要な分だけの言葉がなっている。小さな泉もあってそこは美しさで満ちている。それ以外は何もない。そう何もないのだ。
「ねえ、キスしていい?」
とわたしは言う。
「ええ、また?」
「またじゃないよ。初キス」
「いいよ。でも頬ね」
わたしは彼女のまぶたの上にキスをする。
「え、ちょっとびっくりした。頬って言ったじゃん」
「ねえ、美咲。わたしたちは王国を作るの」
「おうこく?」
「そうわたしたちだけの王国」
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