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泣いてる女の子
まだ携帯電話が普及していなかった頃の話である。
営業職をしているAさんは、客先から直帰する電車の中でつい居眠りをしてしまい、降りる駅を大幅に乗り越してしまった。
辿り着いたのは、見知らぬ無人の終着駅。終電はとうに過ぎている。
ーーー仕方ない。タクシーを呼ぶか。
そう思い、Aさんは公衆電話にテレカを差し込んだ。が、反応がない。あれ?と思い、今度は硬貨を入れてみる。カランっという乾いた音と共に、10円玉が帰ってきた。どうやら故障しているらしい。
「まいったな」
仕方なく、Aさんは他の公衆電話を求めて歩くことにした。
駅から一歩外に出てみると、そこは街灯の灯りがポツポツあるだけの、寂しい田舎の畦道だった。
田んぼの向こうに、うっすらといくつの人家が見える。しかし、どの家も明かりが消えている。電話を貸してください、とは、とても頼めそうにない。
ーーーでもまあ、集落に辿り着ければ、公衆電話の一つくらいは見つかるだろう。
今とは異なり、公衆電話がそこら中にあった時代である。面倒だと思いはしたものの、Aさんはそこまで悲観はしていなかった。
都会とは異なり、誰ともすれ違わない暗い田舎の夜道を、1人淡々と歩いていく。季節はもうそろそろ秋になろうとしていたが、不思議と虫の鳴き声がしなかった。この時期の田んぼにしてはやけに静かだな、と内心で首を捻っていると、
突如、Aさんの周りがオレンジ色の光に包まれた。
後ろを振り向く。そこには一台の車がおり、ハイビームでAさんの方を照らしていた。
目を隠しつつその車を見やると、何とそれはタクシーであった。しかも、どうやら空席のようである。
これ幸いとばかりに、Aさんは手を振ってタクシーを呼び止めた。
タクシーは滑るようにAさんの側までやって来ると、停車し、ドアを開けた。
乗り込むと、運転手が人懐っこい笑みを浮かべて言った。
「こんな夜中に、お一人でどうしましたとね?」
運転手は五十絡みの小柄な男だった。Aさんは事情を説明した。
「ああ、それは災難でしたな。よりにもよって、こんな田舎が終点の※※線で寝過ごされるとは。ところでお客さん、どちらまで行かれますか?」
「とりあえず、※※市のホテルまでお願い出来ますか?」
運転手は、了解しましたと言い、タクシーを発進させた。
「いや、それにしてもお客さんは運が良いですよ。私は今日、どうしてもやむを得ない事情があって、こんな時間に『こんな』道を走っとるんですが、普段は絶対、夜中にはここを通りませんからね。いや、本当に運が良い」
お客さんは運が良いですよ、と運転手は再度繰り返した。明らかに含みのある言い方であった。興味をそそられたAさんは、ここは何かあるんですか?と尋ねた。すると、運転手は、
「ええ、有りますとも。大有りですよ」
と言い、大袈裟に首を上下させた。
ーーーこの道はね、『でる』んですよ。
何が、と聞かなくても、Aさんには察しがついた。
「『でる』って、それは幽霊のことですか?」
「ええ、ええ。そうなんです。ここはね、夜中に『でる』って、仲間内では有名な所なんですよ」
「それは、いったいどんなーー」
と、尋ねようとした所で、急ブレーキが踏まれた。
Aさんは盛大につんのめり、頭を運転席のシートにぶつけてしまった。
「・・・っ! いったいどうしーー」
身体を起こした瞬間、Aさんは『それ』を見てしまった。タクシーのハイビームが照らす先、そこにーー
女の子が1人、道路脇の木の下にしゃがみ込んでいた。
その女の子は三つ編みで、真っ赤なワンピースを着ている。歳の頃は七つかそこらだろう。Aさんは思わず腕時計で時刻を確認した。もうそろそろ、夜中の1時に迫ろうとしている。そんな時刻に、こんな場所であんな小さな女の子が1人で泣いているなどと只事ではない。何かあったのではないかと考えたAさんは、女の子に駆け寄るべくタクシーのドアに手をかけた。と、
「行ってはいけない!」
運転手の怒声に、思わず手を引っ込めた。
「な、何を言ってるんですか? あんな小さな女の子がこんな夜中に泣いてるんですよ! 絶対只事じゃありませんって!」
Aさんは抗議した。
しかし、運転手は青い顔で首を振るばかりだ。
「行ってはいけない。行っちゃダメだよ、お客さん。・・・アレはね、この世の者じゃないんだ」
すっ、Aさんの顔から血の気が引く感触がした。
「さっき言ったろう、『でる』って。アレだよ。アレが、そうなんだよ…」
運転手は震える手で女の子を指差した。
怯える彼の様子を見て、Aさんは気を取り直した。冷静に考えると、確かに、こんな夜中に泣いている女の子など、事件というよりは『そっち』の可能性の方が遥かに高い。運転手の言う通り、アレはきっと、この世のものではないのだろう。たぶん、きっと。
でもーー
「ああ、くわばらくわばら。よくないものを見ちゃったよぉ。まいったなぁ、まいったなぁ。だからオレは、この道は嫌なんだよぉ」
運転手がぶつくさ言いながらギアをいじっている。カコンッ、という軽い振動がすると、タクシーは再びゆっくりと走り始めた。
女の子らしきものの横を通り過ぎる。
その瞬間、Aさんは見てしまった。
その子が、すがるような眼差しで、Aさんを見ていることに。
途端、Aさんの身体は勝手に動き出していた。躊躇なくタクシーのドアを開け、女の子の元へ駆け出す。
バカなことをしている、危険なことをしている、という自覚はあった。
しかし、例えあの子が本物のバケモノで、この先自分がつまらないホラー映画のように酷い目に遭ったとしてもーー
ーーーそれでも、泣いている女の子を見捨てることは出来ない。
Aさんには、どうしても、『それ』だけはすることが出来なかった。
※
Aさんには、一つ下の妹がいた。
彼女は少々気が弱く、肥満気味であった。そのせいもあってか、妹はよくイジメられていた。
妹とは対照的に活発で気の強い性格であったAさんは、そんな彼女のことをいつも守っていた。男子が数人掛かりで妹を囲い込んで酷い言葉を浴びせているのを見ると、相手が何人いようが突っ込んで行った。Aさんは喧嘩が強く、負けたことがなかった。相手を蹴散らすと、Aさんは泣きじゃくっている妹の所にツカツカと歩み寄り、その頭を軽く撫でてやった。
「泣くな! お前がそんなんだからいつもイジメられるんだぞ! しっかりしろ!」
Aさんなりの愛情であり、激だった。
妹はひとしきり泣いた後、
「いつもごめんね、お兄ちゃん」
そう言って、謝る必要がないことを謝った。Aさんは笑って頭を撫でてやる。そして、2人で帰る。それが、Aさんと妹のルーティンであった。
Aさんは、そんな生活が、ずっと続くと思っていた。
しかし、時が経ち、やがて2人は中学生になった。
Aさんは野球部に入り、部活漬けの日々を送っていた。
妹は中学に上がる頃にはすっかりスリムな身体になり、Aさんの同級生から羨ましがられる程の美人になった。男子からイジメられることは無くなったが、その代わり、告白されることが増えた。そのことに多少ジェラシーのようなものを感じてはいたものの、Aさんは、もう妹のことに関しては安心しきっていた。
妹が、泣いているところを見なくなったから。
もうアイツは大丈夫。
Aさんは白球を追いかける日々を過ごした。レギュラーになり、全国大会に出場すること。それが、Aさんのすべてになった。
しかしーー
ある日、妹は学校の屋上から飛び降りた。
理由はイジメだった。相手は同性のグループ。そのグループの中心にいる女子が好きだった男子がAさんの妹のことを好きになってしまい、それが理由で逆恨みされたらしい。
Aさんは愕然とした。
ーーー自分はちゃんと、妹のことを見ていたはずなのに。
しかし、すぐに心の中で否定の声が上がる。
ーーー本当にそうか?
オレは部活のことばかりで、ろくに妹のことを見ていなかったじゃないか?
ーーー妹が、泣いていなかったから。
それだけのことで、オレは妹のことを勝手に大丈夫だと思い込んでいたんだーー
それから後のことは、よく憶えていない。
妹の葬儀には学校中の生徒がやって来た。妹のことなど知らないであろう生徒がわんわん泣いているのを見て醒めた気持ちになったこと、加害者とその親が土下座した時に殺してやろうとして親と親族に止められたこと。それらがまるで夢の中の出来事であるかのように、Aさんの記憶の中に薄らぼんやりと残っている。
だが、その当時のことで一つだけ強烈に憶えていることがある。
それは、妹の遺書の中にあった、Aさんに宛てた言葉であった。
ーーーこれ以上、お兄ちゃんに心配をかけたくなかった。
これ以上ってなんだよ、とAさんは叫んだ。妹を心配することに、これ以上も何もあるものかよ。辛いことがあったのなら、俺に相談すれば良かったんだ。昔みたいに、そんな奴ら俺が蹴散らしてやったのに。お前が、昔みたいに泣いて俺のことを呼んでくれていればーー
『泣くな! お前がそんなんだからいつもイジメられるんだぞ! しっかりしろ!』
昔、いつも妹に言っていた言葉を思い出す。その瞬間、悟った。
ーーー全部、俺のせいだったんだ。
泣いて誰かに助けを求めるという、ごく自然な逃げ道を潰してしまったのは、他ならぬ俺だったんだ。
俺が殺した。
妹は、俺が殺してしまったんだ。
※
それからのAさんは抜け殻のように生きた。
あれほど打ち込んでいた野球は、妹が亡くなった日に辞めてしまった。道具は全て捨てた。あの日以降、Aさんは一度たりとも野球をしていない。
進路に関しても同様だった。周囲の反対を押し切り、決めていた進路を蹴った。そして高校には進学せず、そのまま実家を出て就職した。いくつもの仕事を転々とした結果、初めて正社員として腰を据えたのが現在の営業職であった。そのことに喜びも何もなかった。自分の人生も、自分の命も心底どうでもよかった。ただなんとなく生きているだけ。
ーーー俺は、人生で絶対に間違えてはいけないところで、間違えてしまったんだ。
妹が亡くなって以降、Aさんの人生というのは消化試合のようなものであった。何をやっても何を見ても心が動かない。しかしーー
三つ編みの女の子の泣き顔を見た瞬間、Aさんの心は大きく動いたのだった。
「大丈夫?」
女の子の側に立つ。彼女は俯いたままの格好で動かない。その肩に手を置こうとした瞬間、スッと女の子は立ち上がり、
ーーーやっぱり、来てくれた。
そう言って、にぃっと笑った。
もう、泣いてなどいなかった。
子どもの笑みでは無かった。顔の作りは幼いのに、内面の魂は熟練している。内と外で大いなる齟齬を感じる。そんな、違和感を抱かせるような笑み。
Aさんは肩に触れようとした手を宙に浮かせたまま、固まった。
自分は、また間違えてしまったのだ、と悟った。
手がゆっくりと下がる。不思議と恐怖はなかった。諦めよりも安堵の気持ちがゆっくりと心の中に広がっていく。自分は早く『こう』なりたかったのだと、遅まきながら気がついた。
ーーーこれでいいじゃないか。
Aさんはほんの少しだけ笑った。
泣いている女の子を『また』見捨てるくらいなら、死んだ方がマシだ。
Aさんの目の前で、女の子はゆっくりと手を上げる。そしてーー
背後を指差した。
その動きにつられ、振り返る。
瞬間、Aさんは短い悲鳴を上げて仰け反った。
タクシーのリアウィンドウ、そこに無数の顔があり、全員がAさんのことを憎々しげに睨みつけていたのだ。
その中には、タクシーの運転手の顔もあった。先程までの人懐っこい笑みは何処にも無く、あるのは憎悪の塊としか表現出来ない地獄のような面相だった。
「あなたの妹さんが、私に教えてくれたんだよ」
その言葉に、Aさんは恐怖を忘れ、弾かれたように振り返った。
「お兄ちゃんが『よくないもの』に連れて行かれそうになっているから、助けてあげてって。私は、その声を聞いたの」
Aさんは言葉を発することができなかった。その代わり、涙が一筋、頬を伝った。
「これに懲りたら、もうこんな道を夜中に1人で歩いちゃダメだよ? 『怖いもの』に遭うからね」
「キミは、一体…」
女の子はAさんの質問に答えなかった。代わりに、彼の目をひたと見据える。
そして、笑った。
「「バイバイ」」
一瞬、妹の声が重なったような気がした。
がちり、と金具が噛み合うような音がすると、次の瞬間には、何もかもが消えていた。
そこには真っ暗な田舎の畦道があるだけで、女の子の姿も、タクシーの姿も無かった。
Aさんはその場に立ち尽くした。
どれくらい時間が経ったろう。ふと、彼が隣を見やると、そこには一体のお地蔵様が祀られていた。
顔立ちが、あの女の子に似ている気がした。
Aさんはその場に崩れ落ちると、夜が明けるまで泣いたそうだ。
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