1 始まりは行きつけの珈琲店で

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1 始まりは行きつけの珈琲店で

 それは酷く雨の降る、秋の()のこと。  高坂戀(たかさかれん)は傘を畳むと珈琲店の軒先へと駆け込む。  ”こんなに雨が降るなんて、天気予報では言っていなかった”と心のなかで悪態をついても、一向に気分は晴れなかった。  一つため息をつき珈琲店のドアを開けようとして脇へ視線を移せば、寒そうに自身の身体を抱きしめるようにして雨宿りをしている女性が立っている。  年の頃は二十歳前後であろうか。実際はもっと年がいっているのかもしれないが、幼さを残した横顔が印象的であった。  傘を持たずに震えているところを見ると、彼女にとってもこの雨は想定外だったに違いない。  中で雨宿りしていけばいいのに。戀はそんなことを思った。  自分はハナからここに用があってきたのだ。彼女が店を出たばかりとも考えられるが、その可能性はないに等しい。何故ならここのマスターは客の退店時には入り口まで出向き、ドアを開けてくれるから。  だが、もしかしたら単に迎えを待っているのかもしれないとも思った。雨を凌げる場所は意外と少ないものだ。そう考え直して彼女に話しかけてみる。 「あの、どなたかと待ち合わせですか?」  戀の声に彼女はピクリと肩を震わせる。肩まで伸びた柔らかそうな髪は毛先が濡れてしまっていた。このままでは風邪を引いてしまいそうである。 「余計な世話かもしれませんが、この雨の中で待っていては風邪を引いてしまいますよ」  思えばこれが、姫宮陽菜(ひめみやはるな)との出会いであった。  ロマンチックな出会いと言えばそうかもしれないし、ありきたりと言われれば否定もしない。 「それで、その後どうしたの?」  カウンターに頬杖をつき、興味津々といった瞳をこちらに向けているのは戀の叔母。陽菜と出会った珈琲店(ここ)のマスターであり、現在暮らしているマンションの貸主でもある。  戀は彼女には何かと世話になりっぱなしであった。   「どうもこうもないでしょ。叔母さんだって見ていたじゃないか」  陽菜は駅でスリに遭い、財布を無くしていた。幸いカードなどはスマートフォンのカバーに入れていたし少額しか入っていなかった為、大きな被害は受けなかったが。 「この店もそろそろ電子マネーやスマホ決済できるようにしたほうが良いんじゃないの?」  戀はモーニングセットの食パンにバターを塗りながら呆れ声で続けた。  電子マネーやスマホ決済ができるようになり、世の中は便利になったと思う。しかしながら、使えない場所も存在するわけで。 「あら、そのお陰で陽菜ちゃんとここで一緒に雨宿りができたわけでしょ?」 「まあ、そうだけどさ」  外はサックリ。中はモッチリとした食パンに戀は(かじ)り付く。  彼女が何故あの雨の日に、ここにいたのか分かっていない。  ここで温かい飲み物をご馳走し、雨がいくらか小降りになってから駅まで送り届けた。駅の近くにはあるものの、この店は駅から来ると大通りの向こう側にあるため、駅を利用するだけの人々にとっては便利とは言えない。  とは言え、周りはビルが立ち並び会社員が多く、平日の昼間などは込み合う場所でもある。  彼女は会社帰りだったのかもしれないと戀は思いなおす。 「連絡先、交換したんでしょ?」  面白そうにこちらを見ている叔母が恨めしい。  戀はこの近くのビルに勤める会社員で入社二年目。役職にはついていないが、このような珈琲店に頻繫に出入りできる余裕くらいはあった。 「どうしてもお礼したいというからさ」 「良いじゃない。青春ねえ」  叔母の顔を殴りたい衝動にかられながら、戀はきゅっと口を結ぶ。  二十歳前後だと感じていた陽菜は戀の一つ下であった。 「新しい恋も悪くないものよ」  叔母は四人兄妹の末っ子で、かなり遅い時期にできた子。その為、戀とは十歳程度しか離れていなかった。言わずもがな、戀の初恋の相手である。 「はいはい」 「いつまでも失恋の傷抱えていてもいいことないって」  カウンターから離れた彼女は呟くようにそう言った。それは誰に向けたものだったのだろうか?
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