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5 あの日の事情
もしかしたら道の途中で落としたのかもしれないとも思ったが、そこで陽菜は駅で人がぶつかってきたことを思い出す。恐らくスリは二人組。子供だと侮っていたのが良くなかったのか。
家族ぐるみでスリをしていたという事件を以前ニュースで見たことがあるが、彼らもそういった類なら非常に厄介だ。
駅構内で見かけたお弁当屋のショーウインドウのケース。一週間前よりも値段が上がっていた。国民が貧困になればなるほど犯罪は増える。現在でさえ女性の一人歩きは危険とされているのに。
「いくらも入っていないからと言って被害届を出さないのは、その人のためにも良くないのでは?」
陽菜の事情を知った戀は彼女が被害届を出すことを躊躇っている理由を想像しつつ、そう意見する。
彼女は何も相手が未成年者だからといって躊躇っているようには見えなかった。
「わたしもそうは思うけれど、こんな世の中でしょう? ある小学校では物価高騰のために給食が作れなくなったという話も聞くし」
世の中には給食だけが唯一の食事という子供もいると聞く。戀には、まともに食事を与える財力がないのにも関わらず、子を持とうとする親の心理の方が理解に苦しむ。
「それにあの子たちに良心があるとするなら、罪の意識に苛むと思うの」
「自主的に反省するとでも?」
挫折なら反省から生まれるものはあるだろうが、犯罪ならば反省したところで前科は消えない。たまに『罪を償ったから良いでしょ』と言うような前科者もいるが、してしまった過去は消えることがない。やり直すことはできないのだ。
例えば未成年が罪に問われなかったとしても、犯した罪は消えないし被害者は存在する。それは事実。もし上手くいったからと言って犯罪を重ねることがあるなら、それは通報しなかった方にもいくらか責任はあるだろう。
「わたしは信じたいの」
1000円程度しか入っていなかったとはいえ、お金は労働の対価として手に入れるのが一般的。そして時間とは命と同等。
彼女は自身が削った命を、見ず知らずのその子供たちに施しとして与えると言うのか。
彼女の優しさは十分伝わって来るが、懸念もある。
「陽菜さんがいいなら無理にとは言わないけれどさ。その子たちが、もしまた同じようにスリをしたとする。その時の相手が凄く怖い人で、返り討ちに遭う可能性についてはどうなの?」
戀は最近見かけた海外のニュースを思い出してそう問う。
そのニュースは小児愛者の性犯罪を食い止めるべく一般市民の男が相手を罠にかけ、何件も逮捕に繋げていたという話。
しかしある時、その男がいつものように罠にかけたところ相手はナイフを所持していた為、返り討ちに遭い死亡したと書かれていた。
人というのは愚かだ。
一度なら上手くいくこともあるし、見逃されることもある。けれども上手くいったからと言って何度も行うから露呈するし、捕まるのだ。子供ならなおさら先の事なんて考えないし、そのうちゲーム感覚で行うようにもなるだろう。
「正論ね」
陽菜は戀の話を聞きしばらく考え込んでいたようだったが、肩を竦め小さく笑った。
「一応、被害届は出すわ。後で駅までつき合ってくれる?」
「え? ああ、もちろん」
言い出したのは自分の方なのだから、それくらいは当然。しかし戀の気分は落ち込んでいた。
犯罪が許せないのは関係ない他人を巻き込むから。そして倫理道徳観に反するからではあるが、彼女にそれを突きつけるつもりはなかった。また悪い癖が出てしまったと自己嫌悪に陥る戀に陽菜が不思議そうな表情をする。
「どうしたの?」
「また悪い癖が出てしまったと思って」
元恋人との別れにこの性格は深くかかわっていると思う。
正論とは字のごとく正しく諭すことではあるが、自分の考えを押し付けるために吐かれるものではない。
確かに陽菜に対しスリを行った子供たちの未来は危惧してはいるが、当然ながら他人だ。彼らがもし、返り討ちに遭うような事態に陥っても他人事。
良心が咎めることを基準として通報するかしないかを決めるのは、少し違う気もする。いうなれば、『後味が悪いから嫌』と言うのは自分の問題だから。
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