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─4─
忙しい一日が終わり、会社を出た頃には外は真っ暗で、十九時を過ぎていた。
雪は降っていなかったが、冷たい北風が吹いており、体感温度は今朝より低い。金曜日の夜とあって、普段より多くの人が街に出ていた。歩く人の足取りは軽く、開放感を纏った表情をしている。
勤務している職場が繁華街のすぐそばにある為、焼鳥のいい香りが漂い、思わず足が煙に連れて行かれそうになる。
そんな誘惑に打ち勝ち、いつものバス停に向かっていると、乗る予定のバスがこちらに向かってきていた。慌てて小走りでバス停に向かう。すると、コートのポケットに入っているスマートフォンが振動していることに気づく。走りながら確認すると、慎太からだった。
「もしもし?」
「──恵、大事な話があるんだ。今から会えるか?」
いつもとは明らかに違う慎太の声に、一瞬、鼓動が跳ねる。
「ええ。どうしたの? 何かあった?」
「会ってから話す……」
「わ、わかったわ。どこに行ったらいい?」
「ゆっくり話したいから、家に行ってもいいか?」
目の前を通り過ぎるバスを見ながら「わかった」と、返事をする。
電話を切ったあと、すぐにタクシーを捕まえ、行き先を伝える。
車に揺られ、繁華街を歩く人たちを見ながら、慎太の深刻そうな声に不安を感じていた。何かよくないことがあったのは間違いなさそうな声だった。穏やかで優しさに溢れるいつもの話し方ではなく、暗く沈んでいるような声だった。
悪い病気に罹った?
怪我をした?
もしかして、婚約破棄……。
悪いことばかりが頭を過り、全身の毛穴から嫌な汗が染み出てくる。
運転手に運賃を渡し、足取り重く車から降りた。
「恵……」
慎太が部屋の前に立っていた。
「ごめんね、待った?」
「今着いたところ」
「寒いから入って」
玄関の鍵を開け、暗い部屋に明かりをつける。
ゆっくり会うときはいつも私の部屋で過ごす。慎太は、体の弱い母親の面倒を見る為に実家に暮らしているので、私はまだ、彼の家に一度も行ったことがない。
コートを着たまま床に座り込み、慎太は二人掛けのソファに座った。
「慎太、話って何?」
「うん……。恵にしか頼れなくて……」
力ない声で、慎太は続けた。
「単刀直入に言うと、お金を貸してほしい」
「お金?」
頭の中で一ミリも予想していなかった意外な言葉に、呆然とする。
「実は、少し前から店の経営が芳しくなくて、店を出す時に銀行から借りた分の返済が出来そうもなくなってきたんだ」
驚きはしたものの、病気や、婚約破棄を覚悟していた私にとっては、少し安心できる内容だった。
「いくら必要なの?」
「とりあえず、百万……」
「わかったわ。いつまでに必要なの?」
「三日後なんだ。こんなこと言っておきながらおかしいかもしれないけど、無理はしないでほしいんだ」
「大丈夫よ、それくらいなら出せるわ」
「ありがとう……本当にすまない」
慎太は、私に向かって頭を下げたまま、顔を上げなかった。
「慎太、私達、結婚するのよ。私の貯金は二人の生活費にあてていこうと思っていたから気にしないで。大丈夫よ」
「本当にありがとう。店を手放したくないんだ。助かった……」
「慎太の大切なお店ですもの。私だって守りたいわ」
慎太は、店の開店時間が迫っていたので、足早にこの場を去っていった。週末は忙しく、書入れ時だ。
慎太が帰ったあと、ようやくコートを脱ぐ。緊張していたせいか、一気に力が抜けどっと疲れが出てきた。
ソファにごろんと横になり、天井を見上げた。
それにしても、お店がそんな状況だったなんて知らなかった。いつも忙しいそうにしていたし、実際、私が行った時も繁盛していて、赤字のようには微塵にも感じられなかった。
経営のことはわからないが、あれだけ客が入っていても利益を出すのは難しいということか。商売は難しい。
なんだか今日はなにも食べる気になれない。このままお風呂に入って早く寝ることにしよう。
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