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─7─
外はすっかり日が落ち、暗くなっていた。
雨の中、容赦ないスピードで走る車のライトが、濡れた地面に反射し、目を細める。
葬儀場までは歩いて十分ほど。次第に雪混じりの雨に変わり、傘をさしていてもコートが濡れ、体の芯まで冷えてしまいそうだった。
葬儀場が近づくにつれ、心の中の不安は、風船のように膨れ上がり、いつ破裂してもおかしくなかった。
葬儀場に着くと、既に多くの車が停まっていた。見渡す限り、知っている人はいなさそうだ。
この葬儀場は、市内で一番大きい。黒と白を基調とした建物は、いかにも葬儀場といったもので、陰気な雰囲気だ。その雰囲気に呑まれそうになるも、なんとか入口に立つ。
そこに書かれている文字が目に入り、胸を締め付ける。
『木内慎太』
やはり同姓同名。漢字も同じ……。
深く息を吸うと、喉が震えているのか、うまく空気が入ってこない。
意を決し、震える手で自動ドアに触れる──。
滑らかにドアが開き、目に飛び込んできたものは、目を覆いたくなる現実だった。
大きな祭壇。
白菊。
人だかり。
そして──
綺麗な花に囲まれた……慎太の遺影。
いつも私に向けられていた、あの、穏やかな笑顔……。
「そ、そんな……」
視界がチカチカと白くなり、倒れそうになりながら立ち尽くしていると、後ろからきた男性が私にぶつかり、通り過ぎていった。その拍子に私は前へ倒れ、膝をつく。
そのまま座り込んでしまいたかったが、慎太に迷惑をかけるわけにはいかないと、すぐに立ち上がる。
頭が真っ白になりながら、辛うじて記帳を済ませると、すぐに式が始まった。
一番後ろのパイプ椅子に座る。
私は婚約者なのに、慎太のそばにいることができない。最期のお別れだというのに……。
式の間、時は勝手に進み、私だけが置き去りにされているようだった。
気がつくと焼香が始まっていた。既に前列まで順番が回ってきており、震える足で立ち上がり、その列に並ぶ。
体を少し右に傾け前を見ると、六十代であろう、品の良い男女、私よりやや若い女性が立っていた。そして、そのすぐ隣には小柄な女性と、小さな女の子が椅子に座っていた。
弔問客に頭を下げ、時折、会話を交わしている。
親族なのは明らかだった。しかし、慎太は母子家庭で育ち、母親は病気で入退院を繰り返している。それに、兄弟はおらず一人っ子。そうなると、あれは親戚か?
嵐の前、黒い雲が少しずつ空をうめつくしていくように、私の心の中も、黒くて実態のない不安が広がりつつあった。
嫌な予感をいち早く感じ取った鼓動は、徐々にスピード上げていく。どくん、どくんと、胸を叩く。
列が進み、前方の話し声が聞こえてきた。
「この度は──」
定型文だ。
「奥さんも、体に気を付けてくださいね」
──奥さん?
今、奥さんと言ったの?
それは、どういう意味?
誰の奥さんなんだ……。
また一人、また一人と、焼香が終わり、戻っていく。
あと一人……。
目の前に立っている、腰の曲がったおばあちゃんの番になった。
「先生、ゆっくり休んでくださいね」
先生……。
「奥さん、元気な赤ちゃん、産んでぐださいね」
自分の耳を疑った。
赤ちゃんを産む?
一体、この人たちは誰なんだ……。
なぜここに立っている……。
ここに立つべき人物は、婚約者の私ではないのか……。
頭の中が全く整理されていない状態で、私の番になる。
ないまぜになった感情のまま、ほとんど顔も見ず親族に頭を下げる。
手が覚えているだけで、なんの感情もないまま焼香を終え、遺影を見つめる。
「あなたは、誰……」
そう問いかけたかった。
また一礼し、戻ろうとした時だった。椅子に座っていた小さな女の子が私の足に抱きついてきた。
「こら、みなみ、やめなさい。パパのお友達困ってるでしょ」
力ない声で娘に注意し、私に頭を下げる。それに対し、何も反応できぬまま、後ろへと戻っていく……。
次に気がついた時、私はトイレ前のソファに座っていた。頭が真っ白になり記憶が途切れていた。数分、意識が飛んでいたようだ。
大きく息を吐く。
「──そうか。私、騙されてたんだ」
どうあがいても、この事実にしかたどり着かない。
前に立っているのは、両親、妹、妻と子ども。そして、お腹の中にもう一人の命──。
私は騙され続けていた。一年半もの間、ずっと。
そっか……。
そうだったのか……。
なぜ気づかなかったんだろう……。
「ちょっと!」
突然、静かな会場に、女の怒号が響き渡った。
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