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雪輪散らし
地方創生が謳われて、どれほど経ったのか。ふるさと創生事業が打ち立てられ、全国各地で趣向を凝らし、様々な試みが繰り広げられている昨今。残念ながらその成果は、牛の歩みと揶揄される有り様であった。要とされた情報インフラが遅々として進まなかった所為もあるが、魅力的な田舎での暮しとやらに飛びついたのが、全くお呼びではないリタイヤ世代ばかりだったからだろう。働き手となりうる若人が欲しくて仕方がないのに何故、農業を甘く見た都会育ちの高齢者ばかりが移住するのか。もしくは大自然を甘く見て、覚悟もなくやってきては逃げ帰る、軟弱な中年代。閉鎖的な村意識とやらも天敵と言えようか。
とはいえ、遅れがちだった情報インフラも整い始めて漸く、ふるさと創生とやらが現実味を帯びてきたのである。技術の発展から農作業も見直され、ビジネスとしての農業に未来を見い出す若年世代も登場。インターネットを介した広報活動は新たな顧客を開拓していく。それは自治体の意識改革へも繋がってゆき、現在は如何に地方の魅力を世界に発信するかに腐心している。
そんな世界の片隅で、表情に乏しい青白い顔に疲れを滲ませた彼女は、郵便受けに放り込まれていた封書を手に立ち尽くした。井波眞響様、と素っ気無い打ち出しの文字が綴られたそれは、待ちに待った返事に違いない。
身を翻した彼女は慌ただしく古いアパートの階段を駆け上がり、鍵を取り出すのももどかしく部屋に滑り込むと、草臥れたパンプスを脱ぎ捨てた。手にした通勤鞄を放り出し、チェストの抽斗から鋏を引っ掴むと封を開ける。引っ張りだした薄い紙の、無機質な文字を食い入るように読み込み、彼女はふと肩の力を抜いた。
「やった……!」
叫びだしたいのを我慢しながら、手にした紙を放り投げて万歳をし、はっと我に返り慌てて紙を拾い上げる。もう一度確かめるように文面を眺め、自然と上がる口角をそのままに、大切そうに封筒へ収めて抱き締めた。
これまでの彼女の人生は、平々凡々と言えるだろう。至って普通の両親の元に生まれ、これといって問題なく学生生活を満喫し、無事に中堅の企業へ就職を果たした。しかし世間は不況の波に飲み込まれており、彼女はここで躓いた。
所謂、ブラック企業と言うやつなのだろう。
メディアは必死に好景気を喧伝していたものの、賃金はちっとも上がらず、賞与だって雀の涙。挙げ句、今年の夏には出なかった。
そのくせ仕事への拘束時間だけはどんどん伸びて、目減りしていく人材の所為でますます悪化する。更に働き方改革だなんて余計なことを仕出かされて、残業は「勝手に社員がやらかしたこと」として処理されるようになり、手当てすらつかなくなった。
趣味に逃げて精神の均衡を図ろうにも、小さなプランターに作り上げた家庭菜園ですら維持できない。通勤途中の僅かな時間に、ぼんやりとネットを眺めて逃避する毎日に嫌気がさしてきた頃、地方から発信されるSNSを見つけたのだ。
近頃は、ふるさと創生の一環として、広く移住者を募っている地域が幾つかある。迎えた若者に住処と広報の仕事を与え、地域の魅力を発信してもらうのだ。彼女が見つけたSNSでは歳の変わらない女性が農業に挑戦していて、悲喜こもごもの日々を綴っている。その毎日の、なんと輝かしいことか。
なにもかも全部放り出して、毎日土いじりをしていたい。ぷりぷりのミミズが住み着くような、ふかふかした土の畑いっぱいに、季節の野菜を植えるのだ。近年日本へ入ってきたような外国原産の野菜や、品種改良で誕生した珍しい野菜でもいい。
そんなことを考え始めたら、もう限界だった。このままでは遠からず潰れてしまう。彼女の実家は本当に普通の家庭でしかなく、逃げ帰ったとしても、いずれまた同じような生活を過ごすしかない。それならば、全く未知の、別の場所へ行ってしまいたい。
ここから、逃げなくては。
憑き物が落ちたような、と表現するのが正しいだろうか。漸く思考がそこへ至って、彼女は即座に行動を開始した。
探すのは、若者の移住を積極的に受け入れている所。件のSNS発信者のように、自治体から広報としての仕事を貰える所。任期があるのは承知している。その間に、生活基盤を整えられればいいのだ。それから、最初の一人でないほうがいい。誇れるほど社交的な性格でもないし、移住先の住人たちが、素直に他所者を受け入れられる土壌が出来上がっている方が有難い。
そうして探し出した幾つかの自治体へ、片っ端から申し込みをする。続けざまに落選して消沈していたが、最後の一つに引っ掛かった。
場所は、山間部にある長閑な地域。菜園をしたいと書いたところ、すぐ傍に農地がある空家を用意してくれるらしい。そこは曾て、お婆さんが細々と耕していた畑だったという。空家もリフォームしてくれるそうで、ある程度なら希望も聞いてくれるそうだ。もしそのまま居着くとなったら、その家は賃貸物件として住み続けることも可能。
念願の畑が出来る。その合間に広報の仕事をして、今よりもきちんと、人間らしく生きていけるのだ。
自然と涙が零れて、彼女は乱暴に拭うと決意を胸に立ち上がる。赴任するのは来年の春。それまでに退職して、全て奇麗に片付けなくては。やることは、たくさんある。
◇◆◇
小さなボストンバッグを片手に電車を乗り継ぎ、更に駅前からタクシーを拾って辿り着いたのは、緑の深い場所だった。何処からともなく柔らかな花の香りが漂ってきており、空気はひんやりとしているものの、陽射しは暖かい。
住処となる住居は既に入居可能で、前もって荷物は送ってあった。あれだけ病的に尽くしてきた職場はあっさりと彼女を放出し、アパートを引き払って暫くは、実家でのんびり過ごしたのである。
見る影もなくすっかりやつれた娘の移住計画も、既に決定した後では文句も言えず。大丈夫なのかと心配する父に対して、母はあっけらかんと、SNSを始めたらアドレスを教えてねと笑ったのだ。取り敢えずの目標は、胸を張って両親を我が家へ招待できるようになること、である。
意気揚々と訪れた役場は、意外なことに古い木造和風洋館で、彼女は目を瞬かせた。
古い時代には栄えた地だと事前に調べていたけれど、こんなふうに雰囲気のある建物が無造作に建っているような場所だとは思わなかった。自宅となるはずの物件は、こぢんまりとした古民家だったはずだが、もしやあちらもこんなふうなのだろうか。添付の画像を見る限り、違うとは思うけれど。
おっかなびっくり担当者を訪ねると、壮年の男性がにこやかに迎えてくれた。着任の挨拶をして、再度、仕事内容の確認を済ませる。
雇用形態としては、臨時職員となるようだ。月給制で任期は二年。これは前任者たちも同じで、その間は集落内で生活するさまを、SNS等で発信していくのである。一人目はブログを書いていたそうだし、二人目はミニブログを、前任者はそれに加えて写真共有アプリを使用していたらしい。
アカウント開設の為のアドレスは、役場で用意されたものが与えられるそうなので、後ほど任意で開設すればいいそうだ。更新の手軽さならミニブログだろうが、写真共有アプリというのもいいかもしれない。後で前任者のアカウントを探して確認してみようと朧に思う。
他には、イベントその他の運営手伝い等に借り出されることになるようだ。未知の仕事ではあるが、不安よりも楽しみの方が大きい。
詳しくはその都度に、と大まかな説明は打ち切られて、任期中の職場兼社宅として件の古民家へ向かうことになった。役場から近い集落の外れの方にあるようで、集落の主要施設の案内がてら、二人でのんびりと小道を辿ることにする。
「あの、高梨さん? わたしより前の広報担当は、そのままこちらに?」
「あぁ、そうですねぇ。最初の紀田くんはお嫁さんを貰って住んでますし、井波さんの前任の尾野さんも残ってくれてますね。二番目の人は任期終了後に帰られました」
僕も実は移住者なんですよ、と目を細めて、彼は愉しげに笑う。
「嫁さんについてきたんですけどね、住んでみればいい所だし。昔栄えた名残りで、いい建物も多いからもったいなくて」
二番目の人間も自主的に帰ったのではなく、前職の関係者から泣きつかれて、渋々戻ったらしい。ただ、けして住みやすい土地ではないだろう、と彼は正直に告げる。その一番の理由は、公共交通機関がこの地域まで届いていないためだ。
大昔には鉄道が引かれ、それなりに賑わっていたらしい。役場などの建物はその頃の名残りで、そのまま発展を続ければ小さな都市くらいにはなっていたかもしれないそうだ。けれど戦争によりレールが接収され、終戦後も戻されることはなかった。高度成長期を取り残されてしまったこの土地は、衰退するしかなかったのだ。
「車……、あった方が良さそうですね」
免許だけは取ったものの、これといって必要を感じず、ここまできてしまった。田舎こそ自動車が必要、というのは本当らしい。コミュニティバスもなくはないが、都会ほど本数は走っていないし、思い立ってすぐとはいかない。
「ちょっと駅までなら、誰かに乗せてもらう人も多いですけどねぇ。井波さんは土いじりがしたいんでしたか。持つなら、楽に荷物が積み込める車種の方がいいかもしれませんよ。収穫量が増えたら、道の駅に依託することもできるでしょうし」
「そうですね……。追々考えてみます」
自宅と職場の往復の毎日で、薄給ながらもそれなりに貯蓄はされている。……気力が枯渇し休日にはひたすら眠り続けることが多く、消費することが出来なかっただけとも言うが。生活に慣れてきたら検討するとして、まずは住まいだ。
リフォーム中は、工務店から進捗が画像付きで知らされていた。収納は作り付け、カーテンも掛けてくれると言うので、見本画像から好みの物を選んでお願いした。その他の家具も送っておけば設置してくれるとのことで、素直に甘えさせてもらっている。
しかし、赴任するまでのお楽しみと言われて、完成した姿は見ていないのだ。
風情のある古びた町並みに、こぢんまりと収まる商店をあれこれ教えられ、忘れると困ることは手帳に控える。
実はこの辺りは温泉もあるそうで、唯一の旅館にある湯殿は、入浴のみでも利用可能なのだそうだ。それはいいことを聞いた、と手帳に書き込んでいると、前方の八百屋前に立っていた人物が、ふとこちらに気づいて大きく手を振る。
「こんにちはー、高梨さん!」
その子ですか? と人懐っこく笑う相手へ目を向けて、彼女は目を瞬かせた。
年頃は同じだろうか。すらりとした手足の、背の高い女性だ。ラフな格好に、緩く巻いた豊かな黒髪を無造作に束ねているだけなのに、妙に様になっている。
「丁度いいところに、尾野さん。今日から君の後輩、井波眞響さん。井波さん、あちらが前任の尾野万里矢さんだよ」
朗らかに紹介されて会釈をすると、華やかな印象の美人は、にんまりと笑って手を差し出した。
「やった、可愛い子! 宜しくね、井波さん」
「宜しくお願いします。いろいろ教えてくださいね」
握手をすれば柔らかな手に、一体何を仕事にしているのだろうかと、内心小首を傾げる。
「これから家? 夕飯の当てはある? ないなら差し入れ持って押し掛ける」
「え? あー、ええと。備蓄用に保存の利く食料は少し送ってあります、けど」
「ん、よし。親睦深めたいし、一緒に食べよ? 明日は家へおいでね」
あたしの家はそこ、と指したのは、路地に少し入った先の町家造りの棟だ。
「一番手前ね」
「この町、本当に雰囲気いいですね」
こんなに素敵なのに、知名度が低いだなんて勿体無い。ひょっこりカフェでもあったら受けそうだ、と呟くと、それはいいねぇと高梨が笑う。
「空家はいくらでもあるんだよなぁ。そういう誘致もしてみようか」
「レストランもよさそう。ジビエ流行ってるし。あ、そうだ。アレルギーとかある?」
「いいえ。気を付けなきゃいけないのはありません」
「了解。夕方に訪ねるからね」
ひらひら手を振る尾野と別れて歩き出してから、暫く。建物も少し疎らになって来た長閑な風景の中に、その古民家は建っていた。
塗り直された白壁と、黒々とした木のコントラストが美しい。填められた建具は古い時代のそのままで、少し凝った格子のように枠木が走っている。こちらでリフォームしてもらえるのは家屋だけ、と言うことだった。周辺も少し整えるなら別途費用で請け負うと言ってもらえたので、少しだけ負担している。お蔭様で、庭の一部が作業場になっているはずだ。
けれど、一番かかる水回りは持ってもらえるし、何より屋内になかったトイレや浴室をきちんと作ってもらえるらしい。その代わりに部屋数が減ると言われたが、どうせ一人暮らしなのだ、部屋ばかりあっても持て余す。
外から望めば一応地上二階建て、という風情だが、二階部分は天井の低い作りで、どちらかといえば物置きのようなものらしい。二階へ上がるための階段箪笥が素敵だったので、そのまま残してもらうようにお願いした。
初めに貰った画像通りの外観ではあるが、壁が塗り直されただけで印象がかなり変わる。惚けたように見上げる彼女に笑って、高梨は鍵を差し出した。こちらは、今風のディンプルキーだ。
「どうぞ。今日から君の家だよ」
礼を言って受け取り、当時の建具を改造して取り付けられた鍵を見遣る。こちらも塗装が凝っており、鍵だけが矢鱈と目立つことにはなっていない。
鍵を開けて遣戸を開くと広めの三和土と上がり框が広がっていた。右手奥には大きな扉がついており、開くとコートクロークと靴箱、傘立てになっている。
靴を脱いで框を上がると、左手に短かめの廊下。左右と突き当たりに花模様の和ガラスが嵌まった小さな格子窓付きの中透かし板戸があって、左手はトイレ、奥は風呂場と水場のようだ。右手の遣戸の向こうは、広々としたフローリングの、洒落たリビングダイニング。奥のシステムキッチンからそのまま繋がった一間は、品の良い和風洋館の風情だ。
遣戸側の壁に沿うように置かれた階段箪笥も奇麗に磨かれて、慎ましく収まっている。その傍らに、送った段ボールが整頓されて置かれていた。正面には奇麗な唐紙で飾られた中透かし板戸と掃き出し窓があり、磨かれた縁側が見えた。庭も慎ましく整えられており、よく見れば小さいが夏蜜柑の木まである。
「……すごい、こんな素敵な所に住んでいいんですか?」
「昔の家だから、本当にこぢんまりとしてるけどね。あちらの一部屋を寝室に設えてあるそうだよ。縁側からも出られるけど、キッチン側にも勝手口があってね」
説明しながら突き当たりの勝手口を開いた高梨は、どうぞ、と外を示した。
ひょっこり顔を出してみれば大きな廂……というよりも屋根が作られており、足許には磨かれたタイルのような敷石が敷き詰められているのが見える。往来側は何枚もの遣戸が立っており、目隠しになっているようだ。
「井波さんの望み通り、カーポートなり作業場所なりに使えるようになっているそうだよ。それで、この裏手が農地になってるから、好きに使って」
小さな庭には手押しポンプの井戸まであって、至れり尽せりである。この水も飲料水に使えるそうで、元の住人は畑仕事に使っていたらしい。遠目に見える畑はすっかり荒れていたが、花畑のようにも見えて奇麗だ。
「畦道で区切られてるこちら側は、ここの土地だからね」
「意外と大きいですね。なるほど、だから収穫量が、て」
何を作ろうかと、楽しみで仕方がない。春から植える野菜は何だっただろう? これだけ広いのなら、ハーブだって植えたい。これは、自動車の導入を前向きに検討しなくては。
それから、ライフラインについてや、インターネットの回線等の説明を受けて、彼女は玄関で高梨を見送った。そうして、腕まくりしながら踵を返す。
衣服は、取り敢えず必要なものだけを送っている。それ以外に必要なものをまず片付けてしまおう。調理器具や食器、備蓄食品は真っ先に。夕方までには、ある程度目処が立っていることだろう。
正直な話し、尾野の申し出は有難かった。迷いなくああ言ったということは、彼女も当初困ったのだろう。確かこの臨時職員は、初めから二人目までは男性だったはずだ。
小さなパントリーに備蓄食品を片付け、備え付けの食器棚へ諸々を片付ける。そういえば食卓も何も考えていなかったが、キッチンがカウンター式で助かった。
本棚が欲しいと言ったため、キッチンと反対側の壁には、埋め込みの書棚も作り付けられている。農業関連の書籍やハーブ事典をそこへ収めて、衣類の詰まった段ボールを見遣った井波は、ふと唐紙の遣戸を見た。
窓辺にかけられたカーテンに合わせたような落ちついた色合いの、奇麗な唐紙が暗い色の板を彩っている。近付いてみれば、色和紙に不思議な形の線に囲まれた様々な花模様が判で押されたように乗っていて、柔らかくきらきらと光って見えた。
「……きれい」
これがあるだけ、雰囲気がなんだか柔らかい。リフォームを手掛けた人はセンスがいいんだな、とぼんやり考えながら、そっと遣戸を開いて寝室を覗き込んだ。
せめて質の良い睡眠だけは取りたいと、アパートにギリギリ搬入できるくらいの、大きめでいいベッドを使っていた。マットレスに脚だけがついたようなそれが壁際に据えられて、一緒に送った小さなサイドテーブルが傍らに置かれている。スチールの細い脚をしたそれが思いの外、この家に似合っていて嬉しい。
カーテンを選んでから、他にも幾つか新調したのだ。ふかふかな埋もれるような枕に、柔らかな手触りのシーツに、カーテンの色に合わせたふわふわのケット。
段ボールを開けてベッドメイクを済ませ、確認したクローゼットはなかなか大きくて使い易そうだ。全身映る鏡がついているのも有難い。手持ちの少ない衣服を手早く納めてしまえば、残るは空っぽの段ボールだけ。それも片付けて達成感で満足げに嘆息し、ふと寝室の窓から見える奇麗な夕映えに目を奪われた。
実家は周囲に農地のない小さいがそれなりに栄えた町で、一人暮らししていたアパートの辺りは雑多な雰囲気の住宅街だった。災害対策で電線は減ったけれど、空の窮屈さは変わらなかった。
この土地は、感嘆するほど空が広い。
きっと星も多いのだろうな、とぼんやり空を眺めていると、呼び鈴が響いた。慌てて寝室を出て玄関へ向かうと、古風に風呂敷包みを手にした尾野が、にこやかに片手を挙げた。
「や、さっきぶり。お邪魔しても大丈夫?」
「はい、どうぞ」
お邪魔しまーす、と好奇心を前面に出して遣戸を潜ると、尾野は「おおう」と感嘆の声をあげた。
「これは凄い。あれがこうなったのかぁ」
「尾野さんは、リフォーム前もご存知なんですね」
「ん、候補地絞り込むの手伝ったからね」
リビングへ通すと更に目を輝かせ、ぐるりと室内を見回す。
「余計な家具がないと広いねぇ。追々買い足す感じ?」
「そうですね。ラグを敷いて直座りにするか、ベンチタイプのソファでも置くか……」
テーブルもそれに合わせて選びたい。建物はそれほど密接していないけれど、ご近所さんとも仲良くなりたいし、お友達を招けるようにはしておきたかった。
そんなことを考えながらぼんやりとした希望を口にすれば、想像したらしい尾野がはしゃいだ声をあげる。
「あー、それいいね。どっちも素敵。こういう一軒家も良かったなぁ」
「尾野さんは、どうしてあの場所に?」
「あたしね、旅でここに立ち寄ったの。それで町家に惚れ込んじゃってさ。住みたいなぁって思ってたら、丁度良く臨時職員の任期切れの時期でね」
そのまま居座っちゃった、と四角く包まれたものと、長細く包まれた風呂敷を各々カウンターへ置きながら笑う。そうして、ふと何かに気づいたように笑みを浮かべた。
「……カナの唐紙、ああ使ったの。やっぱり素敵」
唐紙? と振り向いた先には、寝室の遣戸。
「あれ、市販品じゃないんですか?」
「んーん。カーテン選んだでしょ? あれに合わせて柄から起こした作品だよ」
尾野曰く、こうした移住事業には経済を回すためにも、地元の人間が多く携わるらしい。地元の工務店もそうだし、石材店や造園業者も入っているそうだ。そして、工務店のインテリア部門から声がかかったのが、尾野の友人らしい。
経師屋と言われてもピンとこなかったが、表具師ともいうのだと聞いて、何となく理解する。確か、襖だけでなく、屏風や掛軸を作る人だ。
尾野が風呂敷を開くと、奇麗な塗りの三段重が現れる。次々に開かれる中には洋惣菜が小鉢に入って奇麗に詰められていた。
「わぁ、美味しそう!」
思わずあげた歓声に、ありがと、と魅力的に笑った尾野は、細長い方の包みも開ける。
「ワインですか?」
「赤のスパーク。物凄く甘いやつ。お酒は飲める?」
「あんまり強くないですけど、飲むのは好きですよ」
自棄酒や憂さ晴らしになるのが嫌で、ここ数年は殆ど飲んでいないけれど。
それは良かった、と笑った尾野は、手拭いでくるんで一緒に包んでいたらしいシャンパングラスも取り出す。
「酒飲み仲間がまた増えたわ。カナもそうで……あの唐紙を作った経師屋はね、あたしのうちも手掛けてくれてるの。うちの襖、めちゃくちゃ可愛くって! 紹介してもらって、個人的にいろいろお願いしてたら仲良くなったの」
今では、お酒や食材を持ち寄って、騒ぐ程度に交流があるそうだ。
「いいですね、そういうの。わたし、あの唐紙好きです。雰囲気が柔らかくて」
「奇麗だよねぇ。あれね、雪輪模様っていうんだって。輪の内側に、別の模様入れ込んだりして使うらしいよ。なんか、一つ変型も混じってるって言ってたけど」
変型ってなんだろう、と首を傾げていると尾野が踵を返す。ちょいちょい手招かれてついていくと、唐紙を見つめる尾野が、件の模様を見つけたらしく指差した。
「ほら、これだ。輪の一部、三日月みたいなのが」
「本当ですね、桜が輪の外にも散ってて可愛い」
改めて見れば、なかなか凝った図案のようだ。梅の花や菊の花を簡略化したような模様が雪輪の中に配置され、一つ、二つ、微妙に色を変えてある。とても繊細な仕事だ。
作者に会ってみたいなぁ、と自然と零れた一言に、尾野は紹介すると請け負ってくれる。
「どうせ、若年組として括られると思うし。でもまぁ、驚くかもね? 作品と本人、ちょっと懸け離れているというか」
「そうなんですか?」
「んー、一応、イケメン? なんか猫っぽいの。気侭な黒猫みたい」
無造作な黒髪に鋭い猫目。何となく近寄り難い雰囲気があるが、慣れてしまえば為人が見えてくる。あれは単に面倒くさがりのマイペースで、良い意味で職人気質なのだと尾野は遠慮なく扱き下ろした。
「あと、ちょっと天然入ってる。芸術家は変わり者って言うけど、その典型みたいな?」
何やら難しい顔で言い募るが、それよりも。
「男性だったということにびっくりです……」
「うん? ああそっか。ごめんごめん、カナの友達の呼び方が可愛くて真似したら、なんか馴染んじゃって。日浦彼方っていうの。歳は同じくらい……あれ、上だったかな」
まぁいいや、と打ち切った尾野は、御飯にしようよ、とキッチンを指す。言われて空腹を覚えた井波は、そうですね、と笑って頷いたのだ。
主食も何か作りましょうか、と井波が持ち込んでいた平麺のパスタを取り出して、トマトの水煮と幾つかの調味料やハーブで適当に味付けする。思いの外豪華になった夕食は楽しくて、尾野が帰路につく頃には、しっかりと連絡先を交換し、彼女が開設していたSNSのアカウントも教えてもらった。
寝仕度を整えてベッドに潜り込み、少しだけスマートフォンで写真共有アプリを覗いてみると、尾野のアカウントには素敵な建物がたくさん溢れている。
続いてミニブログをチェックすると、こちらは楽しそうな日常が垣間見える内容だった。時折お酒について書かれていて、たまに人物が見切れている。それから、華やかな唐紙と軸の数々。その中に、見覚えのある模様が彫り込まれた板を見つけて、目を瞬かせた。
無理言って見せてもらった新しい作品。増える仲間のためのだって! と書き込まれたそれに、にまにまと口元を緩めると、井波はアプリを落としてスマートフォンをサイドテーブルへと置いた。
今夜は、心地よく眠れそうである。
〈了〉
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