小葵

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小葵

 あ、と呟かれたそれに、気を引かれて振り向いた。それが、全ての始まりだったのだ。  所謂(いわゆる)、一目惚れと言うやつである。  恋に落ちるとはよく言ったもので、底の見えない深い穴へ、見事に落っこちてしまったのだ。とはいえ、面識のない相手とは、そのまま擦れ違うだけで終わる。流石にそれはない、と当人が否定したのも理由の一つ。そこまで惚れっぽいとは、彼女自身信じていなかったのだ。何せ、これまでただの一度も、そうした感情を抱いたことがなかったから。  自分はもしかして何処か壊れているんじゃなかろうか、と。  真剣に考えることがあったくらいには、少しも浮いた話しがなかったのだ。当然、クラスの女子たちともそんな話しで盛り上がることもなく、男子たちからは何故か高嶺の花扱いをされる始末。  地元から離れた高校へ進学すれば少しは違うかと思ったのに、結局何も変わりはしなかった。遠巻きにされる理由が、とんと解らない。  そういうところじゃないの、と指差してきたのは、同じ専科の同類だった。風呂敷なんて使う女子高生がいるか、と言うのである。便利なのに、と憤慨すれば、おまえは年寄りかとあしらわれた。  彼女に言わせれば、無駄に大きな鞄を幾つも抱えている方がどうかしている。風呂敷包みを田舎臭いと蔑むが、左右に交差するように鞄を襷がけにして、更に背中にリュックを背負うさまは、戦後に見られたという、田舎から出てきた買い出しの人のようである。序でに言えば、その時に持っていたのはあずま袋であって、風呂敷ではない。  実際、世間に出てみれば同じく風呂敷を使う人は幾らでもいて、やっぱり濡れ衣じゃないかと思ったものである。  閑話休題。  それから暫くして、再び胸が震えるような代物に出会うことになる。それは、たまたま目にした他者の課題で、あまりの美しさに言葉を失ってしまったのだった。  これの作者は誰だ、と探し当ててみれば、そこにいたのは、いつだか擦れ違った男子で。勘違いではないのかもしれないな、と彼女はぼんやり思ったのである。  結論を言えば、彼とは大層馬が合った。一緒に制作するのは楽しかったし、少なからず影響も受けていると思う。このまま共にあれたら、と自然と考えたが、それも無理なのだろうことは、残念ながら理解していた。  何故なら、全く女扱いされないのだ。  良く言えば悪友。腐れ縁扱いされている節もある。だから彼女は、報われない恋心を()(ちゃ)った。そもそも、慣れない感情を持て余していたのだ。邪魔だと見向きもしなければ、そのうちそれに慣れてしまう。  一緒にいるのが当たり前、と周囲に思われる程度には距離は近かったが、彼はただの相方だ。親友、と呼ぶようになったのは、その頃だっただろうか。嘘くせェ、と眉をひそめて応じるくせに、遠ざけようとはしないさまに、これで正解なのかと距離を測る。  気難しい、まるで猫みたいな人。  けれど彼はつれなく巣穴へ帰ってしまったから、彼女は追い掛けることにしたのだ。彼がくれた華千代(はなちよ)という器、背島(せなしま)画伯の娘というフィルターのない自分を捨てる気なんて、さらさらなかったから。彼がいなければ、彼女は華千代足り得ない。  そうして移り住んだ先は穏やかで、周囲は賑やかになった。それは、現在進行形で続いている。例えば、近頃頻繁に訪れる古民家だとか。  柔らかな陽射しが差し込むリビングから望む畑はすっかり耕され、何やら苗が植えられている。愉しそうに世話している、このこぢんまりとした平家の家主は、何故か頑なに家庭菜園と言い張っているが、これは普通に畑でいいのではないだろうか。 「……あれ、本気農業よね」  となりに座る尾野(おの)も同じことを思っているようで、ローテーブルに頬杖ついて畑を眺めていた。  振り仰いだリビングの書棚には、農業関連の書籍に混じってハーブの本が溢れている。畑の一角には既に幾らか植えられているようで、荒れ野の様相を呈してきていた。彼女は魔女にでもなるつもりなのだろうか。これで、自然農法と称した、雑草塗れで栄養を取られ過ぎた作物擬きを作ろうとしていないだけ、本気度は窺えるが。  井波(いなみ)が赴任してきて暫く経ったが、不思議なほど彼女は土地に馴染んでいる。ご近所には農家仲間が幾人もいるし、森から掻き集めてきた朽ち葉や土で腐葉土をこさえては、鼻歌混じりに世話している始末だ。  取り敢えず、ふんわりとした栗色のボブカットをしたお姫さまみたいな女の子が、田舎のおばあちゃま御用達(かすり)もんぺを着用しないでいただきたい。おまけに、足許は地下足袋(じかたび)だ。家庭菜園と言い張るのなら、内側に花柄の布でも貼ったお洒落長靴でも愛用してほしい。日焼け防止のおばあちゃま愛用農業帽子でなく、お洒落麦わら帽子とか。  だというのに、SNSを覗けば不可解なほどにお洒落農業女子風なのだ。ついているコメントも好意的なものばかりで、たまに本気農業談義を繰り広げているのは御愛嬌。可愛いは正義とはこういうことか、と恐々としていたところ、それ違う、と尾野から冷静な突っ込みを頂いたけれど。 「ごめんね、お待たせ!」  耳に柔らかく馴染む可愛らしい声が、明るく弾んでいる。揃って振り向いた彼女らは、示し合わせたようにため息をついた。何故、田舎の農業おばあちゃまスタイルが可愛いのだ。意味が解らない。  そう言うと、必ず「チヨちゃんはいつもお着物着てるのに」と可愛らしくむくれるわけだが、それとは違うだろうと言いたい、切実に。 「大丈夫、のんびりしてたから。マユちゃん、なんかハーブ物凄く増えてない?」 「あぁ、うん。強いから繁り易いんだ」 「え、それ大丈夫なの?」 「適度に剪定はしてるよ。道の駅に卸したハーブソルト、結構評判いいみたいで」  曰く、増え過ぎちゃってどうしたらいいか判らない! と泣きつかれた株をごっそりと引き取って、一部を畑へ移植した後、残りを加工したのだそうだ。それをあちこちへお裾分けしたところ、売ってみないかと持ちかけられて出してみたらしい。 「……そのうち、蒸留でもしそうだな」  ぽつりとそんなことを言ってみれば、果たして井波は目を輝かせた。 「わぁ、それやりたい! 蒸留器ってネットで買えるかな?」 「チヨちゃんやめて! ホントにマユちゃんが魔女化する!」  しないよぉ、ところころ笑う井波は、抱えていた野菜入りの籠を縁側へ置く。手早く地下足袋を脱ぎ捨てて縁側へ上がると、農業帽子を外して手櫛で髪を整えた。  淡い髪色に灰色がかった目、真っ白な肌。全体的に色素の薄い彼女は、大層日焼けに気を使っている。  どうやら彼女も奇麗に日焼けできない質のようで、酷いと火脹れになってしまうそうだ。ただ赤くなるだけで済む背島としては、少々気の毒に思う。いや、彼女も暫くひりひりと痛む肌に悩まされるけれど。  井波がハーブへ傾倒したのは、そんなところにも理由がありそうだ。 「それにしても、つやつやしてて美味しそうだねー。あ、持ってきた食材、冷蔵庫ね」 「うん、有難う」 「美味しそうな魚介が入ってたから、その辺りで適当に買ってきたけど。今日も、ユラ御自慢のハーブ?」  実は先程から、室内にいいにおいが漂っており、腹部からきゅるりと切ない悲鳴があがりそうになっているのだ。見るからに女子力が高い井波は、料理の腕も素晴らしい。  当人曰く、社畜中に嗜むことが出来た現実逃避が、料理にプランター菜園、アロマからのハーブ全般へ飛び火、だったらしいのだ。生き残るために必死に誤魔化してた、と仄暗い目で笑みを浮かべられて、流石にドン引いたのは秘密である。 「んん、どうしよっか? スープストック作ったから、なんでも出来るよ」 「トマト美味しそうだし、アクアパッツァは?」  はーい、と片手を挙げて尾野が提案すれば、井波は小首を傾げた。 「あー、んん。そうする? 魚介にオリーブ油、ニンニクあるし……。パセリは残念」  ふぅん? と首を傾げて、背島はキッチンを振り返る。 「いい匂いするけど、あれ使うの?」 「ううん、アクアパッツァは出汁使わないんだ。水と白ワイン少しと、オリーブ油にニンニクとイタリアンパセリで魚介を煮るの」 「うん? トマトは?」 「古式は入らないんだって。その場合、水じゃなくて海水らしいけど。でも、トマト入れた方が美味しいよね。お野菜食べたいから、洋風の煮浸しも作ろうっと」  厚切ベーコン入れるの、との一言に、「いいねぇ」と尾野がにんまり笑う。  今日の夕食は、三人で取る予定である。日浦(ひうら)は仕事で缶詰め中だし、小日向(こひなた)は遠方へ出張しているのだ。そんな時、大体は井波の家へ集合となる。彼女の家には食材が山程あるので便利なのだ。ちょっと足りないと畑に出れば事足りる。  だというのに、全員が揃う時は何故か日浦の家だ。元々溜まり場だった所為も、少なからずあるかもしれないが。 「しかし、みんな料理上手とは」  むう、と眉をひそめて腕を組む背島に笑って、尾野はひらひらと手を振ってみせた。 「仕方ないじゃないの。あたしは股旅生活長くて、自炊しなきゃならない宿泊施設使うことも多かったし。ヒナは趣味兼対価だし、カナは必要に迫られて、でしょ?」  序でに言えば、料理ガチ勢なのは井波と小日向で、尾野は気が向くと手が込んだものも作るくらい、日浦は普通に手際良く家庭料理が作れる程度、だ。背島は、作らせれば無難に仕上げるものの、そもそも作る気があまりない。 「チヨちゃん、あんまり食にこだわってないんでしょう? 食べないで済ませちゃうこともあるって、日浦さんが言ってたよ」  だから家に来てくれると安心する、とふんわり笑って、籠を抱えた井波はキッチンカウンターへ足を向ける。 「日浦さんがね、暫く仕事で様子が窺えないから、食べさせてやってくれって」  なんだそれは、と腑に落ちない背島の横で、おかんだ、と尾野が笑い転げる。なんとなく苛ついて「ぺしり」と肩を叩くと、何とも軽く「ごめんごめん」と謝られた。 「相変わらずチヨちゃんには過保護だなぁ、カナってば」 「大事にしてるよね。いいなぁ、羨ましい」 「…………そう?」  憶えている限り日浦はずっと変わらないけれど、とますます腑に落ちない様子の背島を、なんとも残念なものを見るような目で二人は眺めた。 「いや、そんな目で見られても。腐れ縁扱いしかされてないからな? こっちは親友で大事な相方だと思ってるのに、滅茶苦茶嫌そうだし」  実際、扱いもなかなか雑だ。恐らく小日向と同等、野郎の連れ扱いでしかない。こんこんとそう訴える背島に微妙そうな目を向けて、二人は視線を交わらせた。 「……マリちゃん、どう思う?」 「ラヴかと問われると、こう、色んな形があるよね! としか言えないなぁ?」  因みに、冗談めかして結婚してくれと言ったこともある。頭を(はた)かれて終わったが。あれは状況も宜しくなかったので、怒られても仕方ない。  しかし、暫く来ないのか、と。  朧に考えて、背島は心中で頷いた。熱中して描いていると、日浦はなかなか煩くて適わない。ならば、描いてみたかったものに取りかかるには丁度良さそうだ。帰ったら早速取りかかろう、と機嫌良く考えながら、彼女は調理を手伝うべく立ち上がったのだ。   ◇◆◇  絵を描き始めた時、初めて手にしたのはクレヨンだった。  その辺りは、どんな子供でも一緒だろう。背島家でも当たり前にクレヨンを与えられて、ぐりぐりと絵を描いていたらしい。けれど違っていたのは、彼女が幼いうちから正確に、物の形を捉える傾向にあったということ。  画材を換えながらあれこれと描きなぐる日々は楽しくて、微笑ましげに見守る両親が褒めてくれるのが嬉しかった。家の中という、両親に守られた小さな世界にいるうちは、それで済んでいたのだ。  家の外へ出ていけば、他者の目は好奇の色を浮かべて爛々と輝くばかり。父の血がよかったのだと讃える声は、それで褒めそやしているつもりになっていたのだろう。媚びるような眼差しに嫌気が差して、すぐに父と同じ油絵への興味は失せた。  思春期になった頃、文房具に夢中な年頃のクラスの女子たちの熱狂に引き摺られて、デザインマーカーへ手を出した。鮮やかな発色は奇麗で、如何に色斑を消していくか腐心した結果、美しくグラデーションを作り上げる方法を模索して楽しんだ。  絵を描かない、という選択肢は、端からなかった。絵を描くことは既に生きることと同意で、切り離せないものだったから。その頃所属していた美術部の仲間も、ただ絵を描くことが好きな者の集まりだった御蔭か、気のいい人物が多かった。彼女らと画材店へ出かけるのは楽しくて、頻繁に彷徨いていたのもこの頃だ。  そうして、彼女は岩絵の具と出会う。  奇麗、とはしゃいだのは誰だっただろうか。素敵な色がいっぱい、でも高いね、どうやって使うんだろう、と盛り上がる仲間の声を聞きながら、目はすっかり釘付けになっていた。  それから、彼女の日本画行脚が始まった。美術館へ通い、画廊を回り、画集を浚い、様々なものを見て回るうちに、すとんと何かが嵌まった気がした。  序でに、日本的なものだからと見に行った着物にまで嵌まったのは御愛嬌だ。とはいえ、こちらは友禅よりも織りのほう、更には昭和初期辺りに出回った銘仙(めいせん)の色鮮やかさに目を奪われたのだけど。現在の華千代の軸は、銘仙に傾倒した影響もあるだろう。  日本画をやりたい、と両親へ告げた時は、流石に驚かれた。けれどすぐに笑って、どんな絵を描くのか楽しみだと言ってくれたのだ。本当に、両親には恵まれていると思う。  そうして進学したのは、日本画を専攻していた美術講師がいた高校だった。とはいえ彼は学芸員を志し、その狭き門から脱落してしまった人だったので、専門としては修復と答えていたけれど。一応、彼が日本画の一番最初の師となるだろうか。背島としては基本を学びたかっただけであるし、本格的に取り組むのは大学からでいいと考えていたのだ。  絵皿が散乱する室内に、張り詰めた空気が漂っている。いつもなら書物机で制作に取りかかるのだが、今回は大物だ。飴色の床へ全てが散らばって、足の踏み場もない。  アトリエとして使用しているのは、元書斎だという北側の一室だ。森の(ほと)りに建つ和製洋館は、曾てこの地が栄えていた頃の名残りである。  壁際に鎮座する、専用に作った頑強な棚には、グラデーションを描くように岩絵の具が並んでいた。この家の中で、一番金を掛けたものは間違いなくこれだろう。これらは彼女の財産だ。万一の地震で破損でもしようものなら、大損害どころの騒ぎではない。  日が暮れて手許が翳るようになった頃、彼女はふと気づいたように顔をあげた。のそりと身じろぎをして、ぼんやりと奥を振り返る。  いいにおい、と呟いてふらりと立ち上がると、においの元を探して部屋を出た。廊下は既に薄暗く、ぽつりと一つ光が漏れている。タイル張りのキッチンを覗き込めば、馴染んだ背中が気づいたように振り返った。 「……やっと出てきたな、チヨ」  不機嫌そうな物言いに、何日経ったんだっけ、とぼんやり思う。少なくとも、日浦が仕事を終えるくらいは過ぎたようだ。 「ああもう、顔色真っ青じゃねぇか。飯くらい食えよ!」  あぁうん、と曖昧に頷くと、眉をひそめて踵を返す。ひょいと顔を覗き込まれて肩を跳ねさせた。思わず逃げるも構わず手を掴まれて、日浦はますます不機嫌そうになる。 「指先まで冷えてるし。こんなのでよく描いてたな。井波さんが心配してたぞ。スマホ見てないだろう」 「スマホ……」 「いいから飯食うぞ、飯。ライン入ってるだろうから、後で謝っておけよ」  手を引かれて食卓まで導かれ、引いた椅子へ座らせられる。しまった介護状態だ、と今更ながらに頭が働き出すが、こうなると、きちんと完食するまで許してくれない。顔色が悪いらしいから、下手をすると問答無用に風呂へ放り込まれる。  さぁっと顔を青()めさせるが、時すでに遅し。食卓に並べられた食事は日浦の分もあるようで、きっちり見届けるつもりのようである。しかし、所謂ご家庭の味に特化した日浦にしては珍しく、小洒落たリゾットがメインだ。 「おおう、カナがリゾット……」 「井波さんがスープストックくれたんだよ。最初は作ってくれるって言ってたけど、ここで炊いた方が匂いに釣られて出てくるだろ」  流石は相方と言うべきか、行動がすっかり読まれている。一緒に並べられたその他の副菜は井波の手によるそうで、柔らかく煮たり、潰して成型したりしたもの中心らしい。(ろく)に食べていなかった胃にも優しい仕様だ。 「女神だ、女神がいる……」  味気なくならないようにと気を使われていることがよく解る。感涙せんばかりに打ち震えていると、日浦は半眼で言い添えた。 「有難く食えよ。俺が変に頼んだ所為で、責任感じてたみたいだからな?」 「あー、申し訳ない……」  当初は、ここまで隠るつもりはなかったのだ。それがいつの間にやら熱中しており、動くのも億劫になってアトリエへ隠りきりになっていた。最初はスマホが鳴る度に手を止めていたが、そう言えばいつの間にか物音もしなくなった。充電が切れているのかもしれない。  いただきます、と揃って手を合わせ、早速頬張ったリゾットが冷えた身体に染み渡る。おいしい、と頬を緩めていると、呆れたような眼差しの日浦から確認が飛ぶ。 「夜はきちんと寝てたんだよな?」 「一応?」 「力尽きてアトリエで雑魚寝か」  冷え冷えとしていく声に思わず目を逸らすと、盛大にため息をつかれる。 「ここのところ、大作描いてないようだったから油断してた」 「申し訳ない」 「謝らなくていい。おまえは描くのが仕事だからな」  気をつけろと言っても無駄なのは解ってる、とため息混じりに零れた。  これだけ気にかけられるようになったのも、大学時代に倒れた所為である。それから幾度か苦言を頂き、改めることが出来なくて、最後には日浦が折れた。流石に、救急車で運ばれたのは拙かったらしい。  知らないうちに死んでそうで怖い、と。  真顔で言われて、それ以来。何くれとなく世話を焼かれてしまっているのが現状だ。傍から見れば、それはそれは過保護に見えることだろう。現実は介護なのに。  これでも一応、越してきてからは本当に気をつけていたのだ。いつまでも介護されていては申し訳ないし、そもそも自立するために親元から離れている。きちんと計画を立てて描いていたから、倒れもしてないし、運ばれてもいないのだ。久々にやらかした、というのが正しい。  全く信用されていなくて、度々様子を窺われていたけれど。この辺りにも、過保護と見られる要因がある。微笑ましい? とんでもない。当事者にとっては針の(むしろ)だ。淡々と紡がれる冷え冷えとした声に泣きたくなってくる。 「それで? 描き上がったのか」 「あと少し」 「わかった。終わるまで、昼には一度顔出す」 「……申し訳ない」 「表具は?」 「今回は額装したくて」 「任せてもらえるんだよな?」  お願いします、としょんぼり肩を落とすと、ふと空気が弛んだ。楽しみにしてる、と柔らかい声が聞こえて、ほっと表情を緩める。明日には色彩設計を渡すと言えば軽く頷いて、今日は風呂に入ったら休めと厳命された。空腹を満たしてしまえば自然とうつらうつらしてきて、逆らう気も起きない。  こうして大人しく介護されながら絵を仕上げた数日後、詫びの品を抱えて日浦家へ訪れると、どうやら顛末を聞いたらしい尾野たちに生温かい眼差しで迎えられる羽目になった。 「……チヨちゃん、流石にちょっと酷いわー」 「倒れる前でよかったな。久々に慌てる彼方(かなた)見たわー」  昔よっぽど堪えたのか愚痴電話かかってきたんだよなぁ、と遠い目をする小日向に、ぎろりと日浦が一瞥くれる。 「えええ、何それ聞きたいヒナ!」 「滅多に連絡寄越さない奴がさー、いきなり電話寄越したと思ったら、寿命縮むかと思ったとか、延々愚痴るわけよ。目の前で、ばたーんと豪快にいったらしくて?」  二回目からは慌てて受け止めるようになり、一度は階段から転げ落ちそうになり、連絡がつかないと言われて嫌な予感がすると見に行ったら絵筆を握りしめて倒れている。その度に延々と電話口で愚痴られる小日向は、うんうんと相槌を打ちながら、ひたすら聞いてやっていたらしい。 「あの彼方に面倒見られてるとか、一体どんな子だと思ってたら」 「華奢なキモノ姫可愛いと思ってたけど、もしかしてチヨちゃん栄養足りてないだけ?」  じっと胸元を見る尾野から隠すように思わずあずま袋を抱き締めると、はっと気づいて慌てて腕を緩める。  潰すところだった、と取り出した菱形の菓子箱を日浦へ差し出すと、軽く眉を持ち上げて受け取ってくれた。きょとりとそれを見遣った井波が小首を傾げる。 「可愛い箱だね。花虎……?」 「はなこはく。表面しゃりしゃりした寒天菓子だな」 「ユラにもあるよ。ごはん美味しかった」  有難う、と差し出した箱をにこりと微笑んで受け取って、彼女は興味深げに箱へ視線を落とした。 「琥珀って、和菓子だよね?」 「それ、味がフランボワーズとか洋梨で美味しいんだ。カナが好きなやつで悪いんだけど」 「ううん、食べたことないから嬉しい」  明日のお茶で出すから来てね、と背島と尾野へ笑いかける。やったー、と無邪気に喜ぶ尾野は、夕飯の準備だと井波と小日向を促した。 「今日はホットプレートで焼そばだって。たくさん食べようね、チヨちゃん」 「極太麺で厚切り三枚肉、もやしにレタスな」 「レタス、意外と美味しいですよね。わたしは、焼うどんが大体レタスかな」 「目玉焼き付けようよ、とろっとろの目玉焼き!」  それいいなぁ、と小日向が笑って、各々が準備のために散っていく。今日の日浦は彼らに任せるつもりのようで、取り残された背島の背中を軽く押した。 「おまえ、それまだ使ってるんだな」 「うん? 何が?」  あずま袋、と指され、手許へ視線を落とす。案外丈夫で使い勝手のいい代物で、幾つか予備も持っているけれど。 「草色の小葵(こあおい)、高校の頃から使ってなかったか」  小葵、と呟かれた声に振り向いて、全てが始まった。相方でも、腐れ縁でもどちらでも構わないが、こうして生涯つるんでいるような気がするのは、果たして背島だけの思い込みなのか。少なくとも、こうして気に掛けてもらえているうちは、縁は切れないことだろう。 「君も、そんなことよく憶えてるな?」  訝しく小首を傾げると、そうか? と不思議そうな顔をされた。 「見覚えが有り過ぎる……というか、いつも持ってたような記憶が」 「ええ? そんなこと、なかったと思うけど。小豆の菊菱(きくびし)のほうが使ってなかった?」  寧ろ、年寄り臭いと言われた所為で、わかりやすい花柄や、ストライプだ文句あるか、と鰹縞(かつおじま)の方を多用していた記憶がある。  そうか……? と首を捻った日浦は、あ、と何やら思い至ったようで、打ち消すように軽く手を振った。 「悪い、思い違いだ」 「うん? え、なにが?」  何でもない、と流され首を捻る。  それ以来、小葵のあずま袋や半襟を使っているのを見かける度に、何となく日浦が嫌そうな顔をしているふうに見えるのは、気の所為ではないはずだ。 〈了〉
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