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「舞踊家になりたい」
何歳の頃からそう言っていただろうか。私は舞踊家になるのだと一片の疑いなく信じていた。
小さな頃に、親戚が連れて行ってくれた劇場で見た国立舞踊団の踊りを忘れたことはなかった。
鮮やかな意匠の着物が輝き、扇子が雄大な風の流れを生み出す。
凛とした姿が美しく、抑えられた感情がかえって見る者の心を強く惹きつける。
宙に浮いているように見えるほど軽やかでありながら、地に根を張り巡らせているように安定感があって目が離せなくなった。
学校を卒業する年に、国立舞踊団の団員を募集する試験を受けたが合格しなかった。
踊れる場所を探して回った結果、親戚の知り合いがやっている小さな劇場で、働きながら踊れることになった。
劇場裏の小さな宿舎の一室を借り、毎日の雑用と練習に明け暮れた。
2週間に一回、演劇や落語が行われる夜の部の前座として舞台で踊る機会を得ていたが、自分の踊りが良くなっているのか悪くなっているのか、わからなくなっていた。
「痛っ!」
いつものように劇場内の小部屋で一人で練習しているとき、足がもつれて不用意に手を床についてしまった。
右手首がありえない方向に曲がっている。
強い痛みとともに大量の冷や汗が噴き出してきた。
医者に診てもらったら骨折していると言われ、疲労も溜まっているようだから2ヵ月は安静にするようにと厳命された。
劇場の仕事は休みをもらい、手首の痛みでうまく眠れないまま部屋で横になる日々を過ごした。
ふと目が覚めると夜中だった。横になっているのにも飽きて、そっと外に出ると異様に明るい月が劇場裏の庭を照らし出していた。
寒さが深まっていて、キンと冷えた空気で身体が縮こまるようだった。
真っ赤な椿の花がぽとりと落ちる。
椿の木の前に着物姿の人が立っていた。
美しく気高い立姿。
すっと伸ばされた手が私を誘う。
古い椿の木は美しい女性に化けると聞いたことがあったが、強い引力に抗えなかった。
私がふらふらと近づいていくと、椿の花が描かれた着物を着た人が踊り始めた。
その踊りは、磨かれたガラスのように曇りなく透き通っている。極めた人の踊りだとすぐにわかった。
何も語らないまま一差し踊り終えた後、私にも踊るようにと目くばせした。
椿の着物の人は感情が読み取れない表情で私の踊りを見て、何も言わずにまた踊った。
何度も何度も繰り返す。
朝日が顔をのぞかせる前に、椿の着物の人は姿を消した。
翌朝、布団の中で目を覚ますと手首の痛みが戻ってきていた。
昨夜のことは夢だったのかもしれないと思った。
その日の夜にも椿の着物の人は現れた。
それから毎晩、椿の木の前で踊り続けた。
「今夜で最後。」
椿の着物の人が初めて言葉を発した。
「えっ?」
狼狽する私を見て、椿の着物の人が目を細めた。
髪に挿していた飾り櫛を外しながら近づいてきて、私の髪に櫛を挿した。
「次はあなたの番。その飾り櫛を次の子に受け継ぐまで踊り続けることになる。」
そう言って消えてしまった跡に、椿の花が落ちていた。
たとえ妖怪の類であったとしても、踊りの修行に付き合ってくれる存在はありがたかった。
最後だと言われた寂しさに凍えながら翌朝を迎えると、もらった飾り櫛も消え去り、どこにも見当たらなかった。
やっぱり現実ではなかったのだと、ほっとしたような残念なような気持ちで久しぶりに劇場に向かった。
医者に言われた2ヶ月が過ぎ、手首も治ったため、今日から仕事に復帰することになっていた。
劇場で裏方の仕事に励んでいたところに、親戚が訊ねてきた。
新しもの好きで会うたびに違うことに熱中している変わり者で、私が子どもの頃に国立舞踊団の踊りを見に連れて行ってくれた人だ。
「近くに来る用事があったから寄ってみたよ。元気か?」
「うん。」
「きみが舞踊家を目指すようになるとはね。劇場に連れて行ってあげた僕のおかげだな。」
「そうかも。」
「ああ、そうだ。似合いそうな飾り櫛を見つけたから買ったんだった。」
そう言って手渡された飾り櫛は、あの夢の中で渡されたものと瓜二つだった。
「椿の花って、きれいだけど、それだけじゃなくて強そうな感じがしていいよな。
そうそう、昔、国立舞踊団に熱中してた頃にいろいろ調べてさ。初期の団員に『椿の人』って呼ばれていた舞踊家がいて、百年以上前の人だけど、もう惚れちゃって。
当時売られてた写真を持ってる人に頼み込んで譲ってもらったのをいつも見ていたくらいだよ。」
「今でも鞄に入れっぱなしだ。」と言いながら、うれしそうに写真を取り出して見せてくれた。
踊りの動作の一瞬を切り取ったような体勢で写っているその人は、椿の着物を着ている。
昨夜まで夢の中で一緒に踊ってくれた人にしか見えなかった。
そのとき、耳元で声がよみがえった。
「次はあなたの番。その飾り櫛を次の子に受け継ぐまで踊り続けることになる。」
一瞬、背筋がぞくりとした。
だが、ずっと踊り続けるというのは本望だった。
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